テクノロジーは、現在から外部に向かってまっすぐのびる。空間がわれわれからあらゆる方向に拡がっているのと同様に、それらの新しい力は風船を膨らませるように、拡張しながら領域を創造している。テクニウムは情報、組織、複雑性、多様性、感受性、美しさ、構造性などの爆発であり、拡張するにつれ、それ自身をも変化させる。
 この刺激的な自己加速は、自分の尾を喰み込んでいる神話上のヘビ、ウロボロスに似ている。自己加速は矛盾と希望に満ちている。拡大するテクニウム――その宇宙的な軌跡、絶え間ない発明、必然性、自己生成――は、制約のない始まりであり、われわれを誘う無限のゲームなのだ。
――ケヴィン・ケリー『テクニウム』より

1.ディスラプティブ・イノベーション

この文章は書かれているのではない。
あるいは、筆者はこの文章をソファに横たわって書きつつある。正確に言えば書いているのではなく話している。話しながら、画面に文字列が流しこまれるのを眺めている。眺めながらときどき手を入れ、誤字を直したり句読点を入れたり改行したりする。つまり、従来の「書く」作業はそのまま編集作業を意味し、それ以外の何ものをも意味していない。それ以上でもなくそれ以下でもない。この時点で冒頭の一文に手は加えられていない。繰り返しになるが、執筆は「話す」作業によって行われる。筆者の場合、手入力による執筆速度が分速およそ一〇〇字程度であり、音声入力による執筆速度は分速およそ三〇〇字程度である。入力文字数をそのまま生産性を測るKPIとして採用するならば、生産性は約三倍に向上したのだと言い切ってしまって相違ない。つまるところこれは、生産プロセスにおけるディスラプティブなイノベーションであると言って過言ではない。
本稿は、iPhone8に標準搭載されたメモアプリケーション内の音声入力機能を用いて書かれている。音声入力機能は、アプリのユーザーインターフェースにおいて、マイクのピクトグラムとともにフリック入力用のキーボード上に配置されている。つまり、「キーボードを打つことと同じようにマイクを使え」というメッセージが、そこでは明示的に打ち出されているのだと言える。マイクとキーボードは機能として等価であり、それらは相互に補完しあう、文字入力を目的としたテクノロジーなのだ――アップルは自らのユーザーに対し、そう訴えかけているのである。
つい数年前までは――筆者の場合、スマートフォンをiPhone8に買い替えたほんの二年ほど前までは――、そんなメッセージにリアリティを感じることはなかった。かつてはキーボードこそが文章を書くテクノロジーであり、マイクは声を大きくするためのテクノロジーだった。マイクのピクトグラムは司会者や音楽家やお笑い芸人やラジオのDJを意味していた。けれど、音声認識技術の進展とそれに伴う音声認識AIエンジンの精度向上、それがもたらしたユーザーエクスペリエンスの変化の結果、今ではピクトグラムによって表象される意味の境界はゆらぎつつある。想起される概念たちが自ら再配置を始め、テクノロジーの地図を書き替え、かつてはキーボードがペンの占めていた領域を侵犯したように、今度はマイクがキーボードの占める領域を侵犯しつつあるのだ。そうして現在、小説家や評論家や新聞記者やコラムニスト、ライターやブロガーや編集者が、かつてペンやキーボードを用いてしたように、マイクを用いて文字を書いている。そしてそれは、言われてみれば当たり前のことのようにも思える。そもそものはじまりには、人は言葉を用いて書くよりも前に言葉を用いて話した生物だったのであり、重要なのは、話された言葉が――手段を問わず――文字列として残されることだったのだから。

2.テクニウムという概念、その定義

前置きが長くなったが、本稿はケヴィン・ケリー『テクニウム』の紹介を目的としている。前に掲げた私的なエピソードは、決してただ単にとりとめもなく書かれたわけではなく、『テクニウム』に示された「テクニウム」という概念にちょうどいい感じに合致する事例がほかになかったために、一つの具体例としてなんとなくはまりそうな内容として、仕方なしにとりとめもなく語りおろされることとなったものである。特にこれである必要性も必然性もないのだが、筆者がたまたま音声入力に最近はまっているために採用されたと言うこともできるため、そう受け取っていただいて差し支えない。
ところで、申し遅れたが筆者は小説家である。昨年十一月に『構造素子』という作品で、津久井五月さんの『コルヌトピア』という作品とともに第五回ハヤカワSFコンテストの大賞を受賞した、新人のSF小説家なのである。小説を書くのはもっぱら夜であり、昼はコンサルティング会社に勤め、ビジネス・プロセスやシステムに関わるコンサルタントとして普通に労働に従事しているが、それは本論とは関係がない。今は次作の長編を書きたいと思っているのだが、最近は割と忙しく、仕事と家事に追われて疲れてしまい、あまり執筆の時間がとれずに悩んでいる。そんな折に、前述の津久井さんが「音声入力で執筆している」とブログに書かれていたのを目にし、では自分も試してみようと思った次第で、最近は音声入力に凝っている。このエピソードは、そんな、ひどく行き当たりばったりな経緯を持っている。ついでに言えば、そもそも筆者がなぜ今さらになって四年も前――二〇一四年――に出版された『テクニウム』を書評しているのかと言うと、拙作を読んだ読者の方で、「『テクニウム』に似ている」という意味のことをおっしゃっている方がいて、浅学な筆者はその時点で未読だったので読んだところ、たしかに共通点が多く、いたく感動してしまい、その旨をSNSに投稿したらば、「それじゃあ、書評を書いてみませんか?」とご依頼をいただいた次第なのである。いろんな偶然、いろんなめぐり合わせ、あらゆる行き当たりばったりの果ての果て、わたしはたまたまここにいて、この文章を書いている。
さて、本題であるが、「テクニウム」とは『テクニウム』の著者であり、「Wired」創刊編集長でもあるケヴィン・ケリーの造語であり、新たな概念である。それは、言語や文字といった原初のテクノロジーを含む、この宇宙にこれまで存在してきた/これから存在しうるあらゆるテクノロジーの総称であり、従来のテクノロジーの概念を拡張する概念でもある。テクニウムは物理的に存在するハードウェア的なテクノロジーの範疇を超え、ソフトウェアはもちろん、法律や哲学やアートも含まれる。テクニウムは、縦横全ての知的創造の営みを相互に接続するシステムそのものであり、あるいは知的創造の連関の、その運動や流れを指し示し、そして新たな生命のありかたをも指している。テクニウムとは生命である。本書はそう主張する――それは一体どういうことなのか。その帰結は次の論理によって導かれる。

1.生命とは自律的に生成・強化・増殖可能な情報システムのことを指す
2.テクニウムは、自律的に生成・強化・増殖可能な情報システムである
3.よって、テクニウムは生命である

テクニウム自体は本書オリジナルの概念だが、生命をシステムとして捉える考え方は古くからある。たとえば、一九七〇年代にウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラの二人の生物学者が提唱した「オートポイエーシス」というシステム理論は、「構成要素の相互作用と変換を通じて、それらの構成要素を生み出したネットワーク自体を持続的に再生産し拡張する」というものであり、テクニウムに関する定義の根幹をなす考え方に合致する。
システム理論を専門とする哲学者、河本英夫によれば、その理論には三つのフェーズがある。一つには、要素還元主義を排し、要素間同士のネットワークが生成する全体の流れに着目した、一般システム理論やサイバネティクスがあり、二つ目のフェーズには、全体の流れがいかに秩序づけられ維持されるかに焦点を当てた、散逸構造やシナジェテイクスが位置づけられる。そして三つ目のフェーズとして挙げられるのが、システムの持つ再生産性や創発による拡張性に着目したオートポイエーシス理論である。現在のシステム理論においては、オートポイエーシス理論が主流の理論とされている。ニクラス・ルーマンはオートポイエーシス理論を社会学に転用し、人のなすコミュニケーションが生むさまざまな社会現象をシステムとして描画した。そこでは社会もまた一つの生命体であるとのアナロジーが働いており、生命の定義における拡張可能性が示唆されている。
システムは自己言及的にシステム自体を再構成し、構造は構造自体を再強化する。それはこれまで生成されてきたテクノロジーにおいても同様であり、これから生成されうるテクノロジーにおいても同様である。テクノロジーを規定し再生産するオートポイエーシス・システムこそが「テクニウム」と呼ばれる自己言及構造なのであり、生命が動的平衡を特徴とするのと同様、テクニウムもまた動的平衡を特徴とする。さてこそ左様に、あらゆる生まれるテクノロジーは全て、生命としての性質を伴って生まれてくるのである。

3.テクニウムと他の生物を分けるもの

テクニウムは生命であるが、本書では、テクニウムと他の生物は区分される。
ケヴィン・ケリーは、古今東西のさまざまな学説や発見を引きつつ、四〇億年の生命の歴史を概観する。生命が辿ってきたその来歴を辿り直すことで、生命の変化の傾向性とその特徴を抽出する。本書ではその帰結として、既存の生命体は分岐を繰り返すことで、漸進的な進歩を遂げるものであると主張される。単一の複製する分子は複数の複製する分子へ進歩を遂げ、単細胞生物は多細胞生物へ進歩を遂げる。無性生殖は有性生殖になり、核のなかった細胞は核を身につけ、複雑化した分子がRNAの染色体を含むようになる。こうした遷移を図示すると、巨大な樹形図が描かれる。AはAaとAbに、BはBaとBbに、Cから以降も以下同文。既存の生物たちの進歩における本質的なアルゴリズムは、「分岐」にあるのである。
対して、テクニウムはそうではない。テクニウムは「分岐」に加えて「再帰」する。テクニウムは、ある一つの情報について、つねに同時に、複数の経路を通じて処理している。前述のとおり、この文章はマイクを用いて話されている。しかし、キーボードに文字を打ち込み書くこともできるし、ペンや鉛筆で原稿用紙に書き込んでいくこともできる。最近のOCR技術は文字認識AIエンジンの精度向上に伴い、認識誤り率が非常に小さい。こうしてテクニウムは、「書くという行為」に対して転用可能なあらゆるテクノロジーを総動員させる。近い過去のテクノロジーや遠い過去のテクノロジー、現在のテクノロジー、類似のテクノロジー、全く異質のテクノロジー。そうしたテクノロジーを、テクニウムは自由自在に参照する。テクニウムは時間の制約を受けず、空間の制約を受けない。テクノロジーは前後の依存関係に縛られない。
たとえば、小説においては、最先端の現代日本文学にドストエフスキーの引用が含まれることもあれば漢詩が引用されることもある。ギリシア神話が下敷きにされていることもあれば、同世代のアニメや映画や音楽へのオマージュがなされる場合もある。あるいは、政権が変われば原子力発電所がせっせと建築され、次の政権に変われば原子力発電所がせっせと閉鎖されることもある。法律が起案され、法律が廃案される。あるいは、GitHubを覗いてみれば無数のコードが公開され、それらのコードを誰もが自由に使うことができるようになっている。一つのコードをコピーして動かし、単一ソフトウェアが増殖することもあれば、自由に編集したり、他のコードや他の機能と組み合わせることで、全く別のソフトウェアが生成されることもある。そこではAからBが生まれ、BからAaが生まれる。どこからともなくCが現れ、CがZを生成することがある。あるいは、Cが1を生んだり、1が@を生むこともあり、@が一を生むこともある。それとも、一がAに戻ることも。
かつて、ビートルズに心酔するヒッピー青年がパーソナル・コンピューターを作り出し、会社を作った。パーソナル・コンピューターを売っていた会社が音楽プレーヤーを作り出した。やがて、その会社は音楽プレーヤーとパーソナル・コンピューターを結びつけ、新世代のパーソナル・コンピューターと言って過言ではないスマートフォンとタブレットを作り出した。その会社――名をアップルというその会社――は、音楽から始まりソフトウェアに行き、音楽に戻ったかと思えば再びソフトウェアを触り始め、そして最後には、音楽の実績とソフトウェアの実績をつなぎあわせたアウトプットを世に問うたのである。過去から未来に進む時の流れにあらがい、何度も過去に戻っては現在に立ち返り、過去を現在に甦らせることで未来を作る――こうした反復的で再帰的な進化のありかたは、既存の生物にはなしえない、テクニウムに固有のありかたである。
テクニウムは、参照可能な全てのテクノロジーを参照し、接続し、新たなテクノロジーを形作る。そうしてテクニウムは生き続ける。テクニウムは、人間さえも一つのテクノロジーと見なし、人間の手を介し人間同士のコミュケーションを介することで、自らの存在を駆動し続ける。かつて、哲学者アンリ・ベルクソンは、現生人類をホモ・サピエンス(賢い人)ではなく、ホモ・ファーベル(作る人)だと定義した。「知性とは」と、主著『創造的進化』の中でベルクソンは書いている。「その根源的な歩みと思われる点から考察するならば、人為的なものを作る能力、特に道具を作るための道具を作る能力であり、また、かかる製作を無限に変化させる能力である」
人間は知的な生物だが、生物の中で最も優れているわけでも最も偉いわけでもない。人間は既存の生物の一種にすぎず、テクニウムという一つの巨大な流れの中で、テクノロジーを用いてテクノロジーを作る、かよわく小さな工作者にすぎないのではないか――『テクニウム』を読んだあとにベルクソンの言葉を思い出し、筆者はふとそんなことを考える。筆者は今もソファというテクノロジーの上に横たわっている。iPhone8というテクノロジーを用いて、言葉というテクノロジーを用いて、手というテクノロジーを用いて、口というテクノロジーを用いて、この文章というテクノロジーを生み出している。

4.テクニウムは無限を目指す

グレッグ・イーガンというSF作家の代表作に、『順列都市』という小説がある。これは永遠と無限についての小説で、そこでは現行宇宙の大きさと寿命を超えた、正確な意味での永遠と無限が描かれる。現行宇宙にも終わりはあり、寿命は一〇の一〇〇乗年であると予測されているが、本作では、ある理論とテクノロジーを用いて、人は現行宇宙を超えた無限の宇宙を獲得し、永遠の生を生きることができるようになるのだと語られる。『順列都市』において、人は永遠を目指し、地球を超え、宇宙を超え、この宇宙の法則に規定されたこの現実を超え、無限に広がる塵の明滅の中へと飛び込んでゆくのだ。テクノロジーとともに。テクノロジーを用いて。あるいはテクノロジーに用いられ。
ケヴィン・ケリーは、テクニウムを「無限ゲーム」と規定する。彼は次のように書いている。「進化、生命、知性、テクニウムは無限ゲームだ。それらのゲームはゲームを続けるというゲームだ。参加者が可能なかぎりゲームを続けられるようにする。すべての無限ゲームがそうであるように、ゲームのルールとともにゲームする。進化の進化は、こうした種類のゲームなのだ」
無限ゲームは無限にゲームを続けることをゴールとする。そこではゴールはあってゴールはない。ゲームは書き換えられ、アルゴリズムは書き換えられる。分岐する分岐が分岐を続け、再帰する再帰が再帰を続ける。生き続けること、それが無限ゲームなのである。動的な全体性の流れの中で、テクニウムは無限ゲームを続ける。だからテクニウムは無限にゲームを続ける。トートロジーの中でトートロジーであることを問い続け、トートロジーの中へ回帰する。テクニウムは続く。自らの存在を続け続ける。続け続けることを続け続ける。テクニウムは終わらない。テクニウムは自己創出し、自己再生し、自己増強し、自己拡張する。テクニウムは終わることがない。決して。
人類は、原初からこの宇宙の神秘を解き明かし、この宇宙の法則について、全てを説明可能にするように探求を続けてきた。その過程でテクノロジーを作り出し、テクノロジーによって可能性を拡張してきた。しかし、人間の存在自体はテクノロジーではない。人間は他の生物と同様に、限定的な身体を持ち、寿命を持ち、遺伝子を用いて漸進的に世代交代を続ける。死んで、生きて、それを繰り返す。子どもも、その子どもも、その先の子どもも、おそらく今生きているわたしたちと同様の身体構造を持ち、脳の構造を持ち、心の構造を持ち、同じ言葉を話すだろう。わたしたちが笑った話で笑い、わたしたちが泣いた話で泣くだろう。そしてまた子どもを作り、育て、やがて死ぬだろう。
人間は無限を目指すことはできない。人間は永遠を手に入れることはできない。
人間は神を目指すことはできない。それは、失敗が約束された試みである。
しかし、テクニウムはそうではない。
テクニウムは永遠を目指し、テクニウムは無限を目指す。
テクニウムは無限ゲームの中で発展を続ける。
テクニウムは人を超えて存在する。
テクニウムはこの惑星を超えて存在する。
テクニウムはこの宇宙を超えて存在する。
テクニウムは存在し続ける。
テクニウムはゲームを続ける。
テクニウムは必ず勝利する。
テクニウムは反復する。
テクニウムは分岐する。
テクニウムは再帰する。
テクニウムは増殖する。
テクニウムは全てである。
テクニウムは神を目指す。
テクニウムは神を超える。
テクニウムは。

ケヴィン・ケリーは書いている。最後にその言葉を引用する。

 人類が可能なものすべてにはなれる人はひとりもいない。どのひとつのテクノロジーもテクノロジーの約束するすべてを体現することはできない。現実を見始めるには、すべての生命、すべての知性、すべてのテクノロジーが必要になるだろう。世界を驚かせるよううな道具を発明するには、われわれを含むテクニウム全体が必要になるだろう。このようにしてわれわれはより多くの選択肢、機会、つながり、多様性、統一性、思想、美、問題を生む。これらが合わさってより大きな善となり、価値ある無限ゲームとなる。
 それこそがテクノロジーの望むものだ。

 

【参考文献】
・ケヴィン・ケリー『テクニウム』二〇一四年、みすず書房、服部桂訳
・河本英夫『オートポイエーシス――第三世代システム』一九九五年、青土社
・アンリ・ベルクソン『創造的進化』一九七九年、岩波書店、真方敬道訳
・グレッグ・イーガン『順列都市』一九九九年、早川書房、山岸真訳

 

【著者プロフィール】

樋口恭介

八九年生まれ。小説家。主な仕事に『構造素子』(第五回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作。第四九回星雲賞長編部門参考候補作)、Oneohtrix Point Never『Age Of』歌詞監訳など。Twitter:@rrr_kgknk