「共感力」によって人は社会を築き上げてきた
あらゆる生物に共通するもの、それはいずれ「死」が訪れることだ。だからこそ、いかに人生を過ごし終わりを迎えるかという人の根源的な問いは、今も昔もそしてこれからも続く永遠のテーゼである。
私たち人類は、積み重ねてきた技術革新によって、生活環境を豊かするだけでなく、病気の原因を突き止め、ワクチンの開発といった医療技術を発展させ、健康を維持し寿命を延ばす術を手にしてきた。
しかし、どんなに技術を進歩させたとしても、「いつか人は死ぬ」という結果は変えられない。だからこそ、人はこれまで友人や隣人の死に涙し、弔い、新たに生まれる命への慈愛の気持ちを抱き、社会を育んできた。一方、多くの人間や生物を死に至らしめる道具も開発してきた歴史がある。他者への愛と暴力は人の根源的なものなのだろうか。
長年ゴリラの研究に携わってきた人類学者・霊長類学者の山極氏は、著書『共感革命』において「暴力や戦争は人間の本性ではない。言葉によって人間がつくりあげてしまった虚構が生んだもの」だと指摘する。
人間は一人では生きられない存在である。普段食べている食事も、誰かが食材を育て、誰かが食材を運び、誰かが保存性を高め美味しく食べるために加工し、スーパーなどで購入し、調理をして初めて口にすることができる。食に対する安心が成り立つからこそ私たちは生活することができる。
私たちを取り巻く社会とは、そのシステムと他者に依存し、それらが安全であるという前提のもとに安心がなりたつ社会である。その起源は、人間が直立二足歩行をするようになり、身体の変化とともに共鳴する身体へと変化させることで生まれた「共感力」によって共同体が生まれ、社会が形成されたと山極氏は分析する。
ゴリラと人間を分かつ「共感力」の差。その共感力が、喜怒哀楽をともにし、「身体の共鳴」によって共同作業を行うことで共同体を育んできた。次第に人間は言葉を発明し、文字へと発展させ、いくつもの共同体を行き来するような重層構造を持った社会を生み出してきたという。
身体の共鳴から離れ、言葉や文字は魂の存在やあの世といった虚構を想像させるようになる。動物は死を1つの結果でしか捉えていないが、人間は死を起点に様々な物事を捉えなおすようになり、そこから文化や宗教が生まれてきたと山極氏は話す。
一方で、言葉や文字による身体性を伴わない情報の交換は、集団の内と外を別け隔てる要因にもなっていった。「戦争の起源にあるのは、言葉の持つ類推、比喩、アナロジーだ。言葉は世界を、集団の外と内を切り分けた。集団の仲間を思いやるがゆえに集団の外に敵をつくっていく」(『共感革命』)と山極氏は分析する。それ故に、人間の本性は善であり、共感力を発揮して互いに助け合う社会を構築してきた人間の本質と向き合うことが重要だと山極氏は語る。
人と自然とが共生する未来を構想する
生きる上で欠かせない共同体の存在。その共同体を支える人間の共感力。共感力から生まれた言葉や文字による虚構性が、様々な概念を構築する基盤となっている。この概念を構想する力が、時に未来を構想し、様々な技術革新を生み出す源泉でもあった。
オムロンの創業者・立石一真らが1970年に発表した未来予測理論「SINIC理論」も、人類の行く末を構想する1つの道具として発明されたものである。SINIC理論とは、人間が生み出した科学という道具が技術を生み出す種となり、技術が社会を革新させ、社会が技術の必要性を喚起させ、技術が科学を刺激するという科学・技術・社会による三者間の相互作用を、人間の共生志向意欲を通じて円環的に進化を加速させるという理論構造となっている。
理論を打ち立てた当時、パソコンやインターネットが存在しなかった時代において、情報化社会への展望やその先にある社会シナリオまでを描き出していたのが特徴といえる。
そんなSINIC理論では、原始社会からはじまり、農業社会、手工業社会から工業社会へと続き、現代を情報化社会や最適化社会の段階にあるとしている。理論では2025年に自律社会が到来し、2033年には自然社会となり、心の価値に重きを置いた技術や科学が発展すると予想されている。
「これまで、人間が道具や技術を発明してきたことで、モノの価値を重視してきた。理論から導き出される未来とは、そこから人間が真に変容し、心と集団を大事にしながら、多様なコミュニティとともに自律分散型のコンビビアル社会(自立共生)を築くことだと捉えている」(立石氏)
自分と他者という垣根を取っ払い、人間と他者、さらには人間と自然が共生していく未来。人間のみならず、あらゆる生物も含めたマルチスピーシーズ的な相互依存の共生社会を描いているのだ。
そこには、山極氏が言う「共感力」の新たな形を予見するものなのかもしれない。人間同士によるいがみ合いや対立ではなく、いかにして我々人間同士、地球に住む生物すべてが持続可能なものとして生きていけるか。そのための問題に共感力を持って向き合うべき時代にきているのだろう。
死の間際、人が最後に残すのは「心」だけ
こうした時代の変化に立たされているなか、改めて、私たち一人ひとりの人間に視点を落としたとき、私たちはどう生きて、どう死と向き合うべきなのだろうか。
かつて、生まれる時も死ぬときも、家や村落でその瞬間を迎えることが一般的だった。しかし、いまや生まれ死ぬことが市場化され、家族や共同体から切り離されたものとなっている。医療技術の発達は、衛生的で安全に出産を迎えることができる一方、他者の死に接したり、それらを弔う機会、死を共有したりする時間や機会が次第に身近なものではなくなっている。
忙しい毎日を送っている私たちは、ゆっくり時間をかけて他者の死を受け入れ、弔うような余裕すら持てずにいるのではないだろうか。昨今、コロナ禍もあり家族など少人数で葬式をあげることも少なくない。身寄りのない人や家族と疎遠な人は孤独死を迎え、高齢のおひとりさまは生前に自らの手で事業者に「高齢者等終身サポート」を依頼する。死を迎えることがますます個人化し、社会全体で共有化されない時代になってきている。その姿は私たちが果たして求めてきたものなのだろうか。
そうした時代において、在宅医療やその人の好きな暮らしを医療とともに考えながら、町全体の健康やケアについて考え、活動している藤岡氏は、人の生死と向き合いながら、人間が人間らしいあり方とである場所をつくろうと取り組んでいる。身体を共鳴させた対話を重ねながら、人が生きるということ、死に向き合うことについて考える日々を過ごしているのだ。
自らの活動を「木の枝葉がふわっと落ちる瞬間、その葉が、少しでもゆっくり苦しまず、葉が落ちる庭に運ぶ風のようなもの」だと例えた藤岡氏は、死を間際にした人たちについて、こう語った。
「命を終えようとする時、人は自分の体が弱まっていることを身体で自覚し、そのことを前向きに受け入れようとする。そして、最後に残っているのは心だけだと悟るんです。お金や家はあの世には持っていけません。そうしたまっさらな心になるところを私たちは支えているんです」(藤岡氏)
死を前にした時、人が最後に残す「心」。残された者たちは、死者を抱え込みながら、託された心を受け取ってこれからを生きていく。
隣人無き未来の果てにあるもの
技術の進歩はめざましく、医療技術の発展によってこれまで不治とされていた病を幾度となく治してきたことは人類の歴史が証明している。生と死に対する人類のあくなき挑戦が、人類の進歩や発展に大きく貢献したことは紛れもない事実である。
そして、来るべき未来において、人はいよいよ死そのものも超越し、不老不死や人工冬眠技術といったある種の夢物語の技術すら手に入れたりするのかもしれない。もはやそれは、小説やSFの中でのみ想像されていた世界が、今や現実のものとして実現可能なところの一歩手前にまで来ている。
しかし、こうした技術の急速な発展に伴う危険性や、ある種のテクノクラート的世界観だけが進展することによって、人の「心」をどこか置き去りにしているのではないかという懸念も浮上する。
果たして技術は人類にとって希望となりうるのか、脅威となりうるのだろうか。藤岡氏は自身の考えについてこう語った。
「人は愛する人や自分と関係性のある人と、ともに生きたいと思う感情が根源にある。仮に人口冬眠技術が実現し、未来何百年後まで生きられたとしても、その先に、あなたの隣には誰がいるのでしょうか。自分のことを知る人も愛する人もいない世界で、自分だけしかいない世界で生きる意味が果たしてあるのでしょうか」(藤岡氏)
どんなに技術が発達していようとも、友人も家族もいない世界に一人だけが生きている世界にどのような意味があるのだろうか、と語る藤岡氏。人間は一人では存在せず、他者に依存しながら自立して生きていく存在であるという熊谷晋一郎氏の考えにも通ずるものがある。
未来予想のSINIC理論でも、近未来である「自律社会」では人間の内面や精神性、感情に関わる技術が立ち上がるとされている。そこには、これまで以上に科学や技術に対する「倫理」面からの影響を与えていくことになるという。技術の進歩だけに目を向けることなく、人の「心」と向き合うことの重要性についてセッションでも意見が交わされた。
老いなき世界と向き合う生命倫理
とはいえ、人は少しでも長く生きたいし、死ぬ直前まで健康な体で過ごしたいと思う人は多いはずだ。少しでも若い身体であり続け、常に若々しい存在でいたいと多くの人は考えている。ダイエットやアンチエイジングといった分野が近年ますます注目される背景には、死の過程である「老い」における「時間」という誰もがあがなえない存在への抵抗でもあるのだろう。
生物学者のデビッド・A・シンクレアは『LIFESPAN 老いなき世界』において、老化を病気と捉え、治療することにより寿命を延伸する技術が開発されているとし、これまで当たり前だと思っていた老いや寿命という概念そのものを刷新することによって、新たな価値観や社会像が生まれると記されている。山極氏は、これらの考えに対し批判的な意見を述べる。
「生物界において、地球上に存在する有性生殖する生物は、自己の死を経て次の世代に新たな生命を預けることによって種の保存や進化を促してきた。それが、一人の人間が何百年も生き続けるようになれば、次の世代に権利を譲るような感覚が薄らいでいく。将来世代への投資ではなく、自分達への投資に終始してしまう恐れがある」(山極氏)
科学や技術の発展は、過去から紡がれた様々な資源を次世代が継承し、その先人達の業績や先行研究によって現在の学術の新たな知見や視座が生まれてきた。時には、何世代にも渡ることによって解き明かすことができた定理や発見が科学界には多く存在する。まさに巨人の肩の上に立ちながら、その積み重ねの上に科学技術や学問は構築されてきた。それは、人類が老いや死という最後があることを受け入れているからこそ、次の者へ託すという行為を所与のものとして捉えていた。
親から子へ、子から孫へ。世代によって受け継がれるバトン。贈与的がゆえに次の世代へと渡そうとする感覚を持ち続けてきた。贈与的行為への感覚が薄らいでいった未来はどのような姿になっているのだろうか。
山極氏は「何百歳と人間が行き続ければ、もはや子供を産むという選択肢すらなくなるかもしれない。そうなれば、社会はドラスティックに変化してしまう。技術が急速に発展する今こそ、生命倫理を踏まえた議論が必要だ」と指摘する。技術の進化に対して、まさに人間の「心」と真剣に向き合うべき大きな転換点なのかもしれない。
多元的で共生的な時間の中で生きる
人間は、生まれた瞬間から死に向かい歩き続けている。生涯寿命それ自体が、長く生きたから、短いから悪い、といった時間感覚こそ、時間という概念によって縛られたものではないだろうか。
文字の誕生は身体性を伴わず、見たことも聞いたこともない出来事を伝える道具となり、過去に起きた出来事すらも他者へ伝えることができた。言葉は時間という概念そのものを生み出す要因となったと山極氏は指摘する。そして、産業革命を契機に時間を人間の行動によって当てはめるようになり、効率性や生産性といった時間概念が資本主義を大きく発展させ今日に至る。いまや、私たちは仕事においても家庭においても「時間」に囚われて生きている。
山極氏は、時間に囚われ過ぎた「人間の機械化」への警鐘を鳴らし、同時に「人間性の回復」について説く。
「本来、人間は自然や生物と共生しながら、多様な時間の中で生きる存在だった。それが、一律の時間軸にこれまで押し込まれてきた。他者との共生とはつまり、他人の時間とともに生きるということ。私たちが当たり前だと思っている時間の概念から一歩抜け出すことが、人間性の回復につながっていく」(山極氏)
他人の時間を生きる。例えば、赤ちゃんや乳幼児は、こちらの都合や状況に関係なく、お腹がすいたら泣く生き物である。つまり、彼らとともに暮らすことは自分の時間から脱却し赤ちゃんの時間を生きることでもある。そうした経験は、時間を人間が管理したりコントロールしたりできるものではない、という感覚をもたらしてくれる。
自己責任といった自己本位な価値観が生まれた背景も、利己的で目的的時間が生み出したものなのかもしれない。こうした時間感覚から脱却し、多元世界の相互依存的な関係性における共生的な時間を過ごすことこそ、共感力を持った人間のあるべき姿だと山極氏は話す。
老いを美しいものと受け入れ、利己的な時間から利他的で共生的な時間で生きる時、私たちにとってより良く生きるとはなにか、その時に迎える死をどう受け止める心の持ち方があるのだろうか。
この終わりなき問いを投げかけていくから、まずは始めてみるとよいのかもしれない。