大学発スタートアップという新たな潮流
あなたは「アカデミア」「大学」と聞くと何を思い浮かべるだろうか。大学に進学した人は自身の大学時代を、大学院経験者は自身の研究や担当教授を思い浮かべるかもしれない。
知の宝庫である大学は、教育機能だけでなく研究機関としての役割も大きい。バイオやロボット研究、ノーベル賞を受賞するような医学分野、他にも私たちの社会のあらゆる分野で研究開発の成果が活かされている。大学は私たちの生活や社会を変えうる大きな可能性を秘めており、まさに「インパクトを生み出す宝庫」でもある。
一方で、未知なるものや評価の定まらないもの、短期的な成果を上げづらい研究開発は、多くの人にとって「何をしてるか分からないもの」と映るかもしれない。時間と労力のかかる研究開発に対し資金投入の難しさもあるが、資金がなければ新技術や新発見となる研究が生まれてこないのも確かだ。
インパクトとアカデミアとのあり方を考えるにあたり、近年の大きな潮流として大学発スタートアップの増加が挙げられる。経済産業省の調査によると、2022年度の大学発ベンチャー数は3782社と過去最多を更新。その背景には、大学が持つ研究開発を社会に開き、イノベーションの創発やインパクトの高い事業を生み出すことへの機運の高まりがある。
KIIが実践するアカデミアが生み出す新たなインパクト
慶應義塾大学は大学発スタートアップ輩出数で上位に含まれる。そんなスタートアップを支える一つとして、宜保氏が参画している「慶應イノベーション・イニシアティブ(KII)」の存在は大きい。2023年10月には「KII3号ファンド」を組成し、200億円規模のインパクトVCファンド運用に取り組んでいる。そんな宜保氏から、KIIの設立背景やアカデミアとインパクトの最前線で活動するなかで見えてきた課題について話された。
KIIのミッションである社会課題解決を達成するため、国内大学発VC最大規模のインパクトファンドを組成している。インパクト投資への理解を深め、多くのステークホルダーを巻き込むことがインパクトを生み出すエコシステムとなる。
すでにKII3号インパクトファンドでは宇宙スタートアップや医療・健康の課題解決に取り組むディープテック系スタートアップに出資をしており、KIII3号インパクトファンドのセオリーオブチェンジを「すべての人が、健康で、幸福な人生を達成出来る社会(生涯現役社会)の実現」と設計し、いま世の中にない研究成果を受け入れられるような間口を広げることを大切にしているという。
インパクトファンド運用にあたって、国際的IMMに準拠した設計や運用をもとにロジックモデル策定によるインパクトの目標と道筋の言語化、5つの基本要素に則ったインパクトの多面的分析と指標設定、人や地球へ期待されるインパクト創出を損なう可能性がある9つのリスクとリスク発生確率やインパクトに対する影響分析などを投資先と丁寧に対話を重ねながら設定している。
宜保氏「ロジックモデルを作ることは、事業を円滑に推進するにあたってのインパクトという新しい切り口なのです」
IMMという手法を行うことで「誰の」「何を」解決するのかを投資先に問い続けることの重要性を指摘する。インパクトの指標やKPIの立て方は国際的な論文にその根拠を求めることも多く、指標の妥当性などをKIIがハンズオン支援で伴走しながら事業推進を支えている。
一方、運用していく上でいくつかの課題もある。例えば国際的IMMは一定のモデル化がされている環境や開発分野において適用しやすいが、ディープテック分野は受益者の複雑化や希少疾患のように受益者数が少ないこともある。「受益者数でインパクトの大小が決まるわけではないはずです。これまでないインパクト設計の落とし込みに日々知恵を絞りながら行っています」と語り、未知なる研究や技術に対するインパクト指標設定の難しさを語る。
社会や地球にどのようなインパクトを与えるかという観点に立って考えることができる人材も多くはないことも課題の一つだという。また、新技術に対し政策や法律も追いついていないため、政策立案や政策提言も平行して進めなければいけない。そのため、インパクト可視化のケーススタディや研修プログラムを通じ、人材育成やIMMの指標分析や設定を当たり前のものとして事業立案できる環境整備が必要だと話す。
インパクトの多義性、経済性以外の価値の解像度を上げるには
宜保氏の話を受け、アカデミアに対してインパクトという評価軸が入ることにおける社会的な意味について議論が発展した。西村氏はアカデミアとインパクトの関係について二つの課題があるという。
一つが「インパクトという言葉の具体性のなさ」だ。インパクトを語る時、それは量なのか質なのか、その定義がバラバラであることで認識統一されていないこと、インパクトという言葉が持つグラデーションを明らかにすることを説く。
もう一つが「インパクト投資における経済性以外の利益への解像度を上げること」だ。インパクト投資において重要視される「社会的利益」の具体的な中身を把握できなければ、前提として利益が利益だと認識されない。「アカデミア分野において社会的利益はとても多様で、一つではないはずです。目に見えやすい経済性かそれ以外のもの、という状況から脱却し、経済性以外に社会還元される利益への理解や認識を高めなければ」という指摘だ。
西村氏の指摘に対し、モデレーターの水谷氏は自身が執筆を担った「インパクト投資拡大に向けた提言書2019」において、海外の先行研究をもとに一般的な投資、ESG投資、インパクト投資、一般的な寄付の違いの分類とその中身のグラデーションを図表化したことに触れ、この提言書によってインパクト投資という言葉の解像度が上がり、言葉に内包される多様さやグラデーションへの認識が広がったと話す。
一方で「この図表がすべてではなく、西村さんの指摘のとおり社会的利益にも多様性があるはずで、新たな視点に立てばまた新たな整理が求められる」とも水谷氏は話す。西村氏は「イノベーションとは新しい概念を打ち出すことではなく、世の中に対する解像度が上がることで他者や自分とは違う別の立場や暮らしへの具体的なニーズを認識すること」と水谷氏のコメントに応答。認識を捉え直し新たなニーズに気づくこともインパクトに内包できるものではないか、と議論を展開した。
人文・社会科学の知は世界の見方を変えうる存在
技術を社会実装する際に技術的な課題だけでなく法律や倫理など技術が社会にいかに受け入れられるかを考える「ELSI」(倫理的・法的・社会的な課題)というキーワードが出てきている。新しい技術が私たちの生活や社会を変革しうるものになればなるほど、研究者の知見からELSIに向き合うことの重要性は高まってくる。
岡田氏「人文・社会科学分野の研究は、ともすれば役に立つ・役に立たないという二元論から『文系学部不要論争』が叫ばれ学問軽視も問題視されています。一方で、先端技術の社会実装における課題に対し、人文・社会科学分野の知が重要視されているELSIのような動きもあります。また別の視点では、次なる社会の構想や人々の認識変容にもつながる研究も多くあるはず。だからこそ、ビジネス領域やクリエーター、アーティストなどの多様な人々と知が接続することで、その価値が社会に拡がる可能性が高まると考えています」
こうした問題意識もあり、自身が運営するデサイロでは研究者とアーティストのコラボによる作品制作や、直接的に利益を生み出しずらい研究分野や若手研究者の支援活動を行いながら「別回路で研究知を社会と接続させ、世の中の認識を捉え直す価値を生み出す機会になれば」と話す。これらの活動もまた、西村氏らが指摘したアカデミアに対する認識論ともつながるものであり、従来とは違う研究アウトプットも新たなインパクトの可能性があると言及した。
岡田氏「デサイロ(De-Silo)の意味は、学問分野におけるサイロ化からの脱却。社会の多様なステークホルダーらが交わりながらインパクトという文脈にアカデミアが積極的につながることは重要です」
西村氏が運営するエッセンスでは、研究者の研究テーマや研究成果への理解を深めるためにメディアでの情報発信を通して学問の面白さやその奥深さを体感してもらい、研究者と市民との橋渡しをしている。
西村氏「学問領域で閉じているものを開いて情報化し、資本化し、社会共通の資本として市民や企業が知的資本にアクセスできる仕組みをつくっています。研究者とは今まで分からなかったもの、誰も高い解像度を持っていない事象に対して取り組んでいる人であり、人文社会社会学系はまさに世界の見方を変える学問なのです」
岡田氏も西村氏もそれぞれに違ったアプローチで社会との接続を試みている。社会と接続する方法はまさに多様であるとともに、その接続の回路を生み出すことの大切さについて言及がされた。二人の議論を受け、宜保氏は「KIIが国際基準のIMMを行う背景には、研究の内容が分からない人であっても研究開発やスタートアップの価値を理解してもらえるための共通言語を生み出すもの」と捉えているという。一定の指標や分析を通じ社会への価値提供を言語化することで、研究が研究で終わらない社会還元されうるものである認識を持ってもらう一助となるだろう。
アカデミアと社会の新たな接続による社会還元の方法とは
アカデミアが持つ価値をいかに社会と接続させその多様なあり方の認識の解像度を上げていくか、その先にあるアカデミアの社会還元のあり方について意見が交わされた。
岡田氏は、3つの視点を持つことが大切だという。一つは評価指標が明確でないために社会的意義が示しずらい研究に対し、研究で生まれたネットワークを分析し、研究者間あるいは研究者と社会的アクターとの間に発生した相互作用やコミュニケーション、共同を「生産的相互作用」と捉え評価していくことが世界的にも提唱され始めていることに触れ、相互作用的ネットワークの可能性について言及した。一方で、知が生まれるネットワークである「生産的相互作用」の議論とインパクト投資の測定はいまだつながっていないと岡田氏は指摘。「両者がつながることで、新たなエコシステムやインパクトに対する新たな価値測定が生まれるのでは」と話す。
岡田氏の指摘に宜保氏は「大学の評価は特許ではなく社会との関係値によって測ることができるのではないか」とコメント。大学のインパクト評価における相互作用的ネットワークの可能性について触れた。
二つ目は、デサイロが実践しているようにビジネス側と研究者との間に入り、オーガナイズすることでネットワークのハブとなり、これまでにない研究知を社会に対してアウトプットするように、知の出力先を調整し変化させることの視点だ。三つ目は、価値が生まれる前の実験段階に対する資金の多様さの確保だ。科研費や民間財団の助成金などを活用した資金調達が難しい研究テーマに対し、柔軟な資金の出し手を増やすことでより多様な領域に関する研究が生まれ、新たな社会の認識や解像度を上げるきっかけとなり、アカデミアにおける新たなエコシステムの基盤が生まれる。デサイロが若手研究者へ支援プログラムを提供することにはこうした背景もある。
一連の指摘に対し、社会の知は、知そのものが独立しているわけではないことが改めて浮き彫りになった。「インパクトを支える資金としてフィランソロピーは欠かせない。複合的、多種多様な資金がアカデミアに入ることでインパクトが生まれる」と水谷氏もコメントした。
西村氏は、ミラツクやエッセンスの活動、大学教員をしながらも、自身が博士課程に通っていることを皮切りに「他の領域を知る一番の方法は誰かの弟子になること」と語る。「大学は一度入って卒業したら終わりではなく、生涯ともにあり続ける存在。諸外国のように複数の修士号・博士号を持つことが当たり前になってほしい。学び直しという形で社会がもっと大学と接点をもって人材や知の交流を増やすべきだ」と、大学のあり方の見直しが大切だと説く。
近年、政府もリスキリングや学び直しの重要性を指摘するようになってきた。ますます複雑化する時代、学び直しにより自身が持つ既存の知識体系を更新させること、それによって知の最前線に立つ事が結果として物事の認識を変えるとともに、西村氏が言う「知的資本を積み上げることで自身の能力を上げる」ことにもつながっていく。
社会人になって大学院に進学する人も多くなってきた。それだけ、大学という機関が持つ様々な資源への可能性に気づき始めている人が増えている証拠でもあるだろう。大学自身が社会に開いていくとともに、私たち自身が大学に入り直し、新たな知的資本をもって社会の認識の解像度をあげていく。アカデミア領域と社会との多様な接点が生まれることで、そこから新たなインパクトの可能性が育まれていく。