「創世神話・宇宙生成論は、『どういったいきさつで、この世界は在るのか』『なぜ僕たちは生きているのか』といった問に、各自のやりかたで答えようとしている」

千野帽子氏は著書『人はなぜ物語を求めるのか』の中で、神話の役割をそう説明した。どうしてこの世界が存在するのか、なぜ私たちは生きているのか。捉えどころのない問いについて、人間が理解するために語られてきたのが、神話なのだと。

そうした神話に共通するのが、人間だけではなく、動物など人間以外の生物が登場し、大切な役割を果たすことだ。たとえば、古事記では鹿が神の遣いとして現れたり、ウサギが神に助けられたりする。ギリシャ神話では上半身が人間、下半身が馬のケンタウロスなど、人間と動物が合体したような生き物も登場する。

私たちが「どうしてこの世界が存在しするのか」や「なぜ生きているのか」を考えるうえで、人間以外の生物とのつながりを捉えること、既存の境界を疑う想像力を働かせることは、必要不可欠なのかもしれない。

神話は、現実的なカオスと文化的な秩序を媒介する

初めに、石倉敏明氏が、神話の役割や重要な特徴、神話と芸術の関わりについて共有する。石倉氏は、神話や宗教を専門に、環太平洋の比較神話学にもとづく「山の神」の研究や、芸術人類学の探求、それにアーティストとの協働制作などを行ってきた。石倉氏の話は「そもそも神話とは何か」という問いに始まり、現実と意味の世界を媒介する神話の役割や、そこに織り込まれた“人間以外のアクター”についてと進んでいく。

石倉敏明氏(以下、石倉):
もともと、神話というものは一つの物語の定義以上のものとして、捉えたほうがいいのかなと思っています。たしかに、神話は宇宙の秩序を物語る形式の一つです。と同時に、私たちが織りなす文化的な意味の世界と、実際に生きるリアルな世界を繋ぎ止める働きも持ちます。神話は、文化的な秩序と現実のカオスやノイズの間でいかに均衡を取るかという、重大な問題を孕んでいるのです。

神話とは、コスモスやロゴスといった宇宙の秩序を、実際に形にするための知的かつイメージ的な運動です。それは、ホモ・サピエンスがあらゆる知的な能力を使って行なってきたものです。その蓄積が、後に科学や芸術といったジャンルに分化していきました。

このように神話は、この世界に生きるすべての者たちの歴史や社会がどのように始まり、現代に至ったのかという来歴を語ります。人間の知っている歴史を絶対化せず、あり得たかもしれない複数の筋道を構想し、それを物語の形にして語るものなのです。

加えて、神話は人間以外のアクターを柔軟に取り込む特徴もあります。人間と人間以外のものたち、特に動物が大きな意味を持っているんです。20世紀フランスの偉大な人類学者、レヴィ・ストロースは以下のように述べました。

神話とは、動物と人間とがまだ互いに切り離されてはおらず、それぞれが宇宙に占める領域がまだはっきり区別されていなかった、非常に古い時代に起こった物語である

彼の言うように、世界中の神話は、動物のような異種の存在を、人間と隔絶したものではなく、人間と同等の生命や歴史を持つ者と扱ってきました。それどころか先住民神話の多くは、動物を人間の重要なパートナーとして考え、結婚したり、互いに変身したり、同じ言葉を語る仲間の一員だと考えてきたのです。

神話には、単なる空想の物語ではなく、その土地に生きる他の生物や非生物の視点が、人間の言葉に翻訳され、織り込まれている。その意味で、神話は複数種の交流を可能にする、人間以上の物語とも言えるのです。

このように、実の世界と意味の世界を媒介する神話と同じ役割を現代のアーティストも担っているのではないかと考えています。そうした“媒介者”的なアーティストの作品については、後ほど紹介していきます。

仮面を通して語られる神話と、私たちの“変容可能性”

意味の世界と現実の世界を媒介し、人間以外のアクターも取り込む神話。それらは言葉で語られるだけではなく、造形やイメージで語られることもあると、石倉氏は言う。そうした造形やイメージから浮かび上がるのは、私たち人間の変容可能性、この世界の多元性だ。

石倉:
神話を表す造形やイメージの例として仮面について考えてみましょう。レヴィ・ストロースは、以下のような興味深い言葉を残しています。

仮面はそれが表現しているものではなく、それが変容するもの、いわばそれが表現しようとしない者であることを示したことを願う。

つまり、仮面はそれ自体で存在しているのではなく、常に翻訳され、変形されていくもの。今ある仮面が表現する何かとは別の何かに、変わり得る可能性を持っているということです。私は仮面だけではなく神話も同じように、たった一つだけで存在するのではなく、常に変容し、別の何かに変わり得るものだと思っています。

芸術人類学の領域では、美術史家のアビ・ヴァールブルクや人類学者のカルロ・セヴェーリによって、世界中の造形やイメージにも「変容」がみられることが語られています。

たとえば、オセアニアの装飾やホピ族の壺絵、フナ族の絵文字、アパッチの蛇と十字架のイメージなどは、神話的な「変容」が、芸術や工芸の領域でも起こり得ることを証明しています。そこでは、異なるものたちが存在を越境し、抽象化されています。セヴェーリはここに複数種を融合するキメラ的な抽象化があるとも語ります。

こうしたキメラ的なものは、共同体による幻想で、現実には存在しないものでしょうか。私はむしろ、共異体の現実をデザインしているのではないかと考えています。

つまり、個々人が生み出す逸脱した動物のイメージは、集団的な想像力を抽象的に変形したものであり、変異体を通して新たな世界の可能性を示しています。キメラは、そこにかつて存在したことがなく、今も存在せず、これからも存在しないかもしれない生き物だからです。

複数のものを融合したキメラ的なイメージを通して、私たちは変容可能性そのものを表現しようとする。この変容可能性は、本カンファレンスのテーマに含まれる「アニミズム」とも、深く関わっているように思うのです。

この「変容可能性」は、神話の視覚的な表現にのみ限った話ではありません。神話は、人間のイメージを超えて、言葉や存在との間に通路を拓きます。

現代の哲学者であるエマヌエーレ・コッチャは、人間という存在が、惑星規模の原子の使い回しであり、以前に存在していたすべての物質と生物が、生殖や誕生を通して、個人の精神と身体を形成していると主張しています。つまり、私たちは一つの生命の変異体であると言うのです。神話は、これと同じことを、アニミズムと科学の間にある物語の形式を使って語ろうとしているのではないでしょうか。

すでに説明したように、神話はしばしば動物と人間のイメージの変形を伴い、両者を結合させたイメージを作り出します。ギリシャ神話のメデューサのように物語の文脈を持ったものも少なくありません。とりわけ、動物の頭部を持つ人間像は、古代の儀礼から現代美術のパフォーマンスまで、多くの作品に表れています。

日本にも獅子踊りという芸能があります。踊り手が、鹿や猪、獅子、魚といった、実在と非実在を超えた動物のイメージを集め、特別な仮面と装束をデザインします。人間以上のもののイメージを喚起し、一体になって変身する。人々は日々食している獣の魂と、自らの祖先の魂を平等に供養するのです。

人間以外のアクターが織り込まれた世界中の神話と芸術

複数の種が融合したキメラ的なイメージによって、私たちが個として存在するのではなく、一つの生命の変異体であることを示す。そうした表現の例は、日本に限らず、世界中にみられると言う。石倉氏は、変異体としての新たな世界の可能性を想起させる、世界各国の芸術作品を案内してくれた。

石倉:
まずは、カンボジアのアーティストKhvay Samnangの『POPIL』という作品を見てみましょう。植物の蔓で編まれた獣と、動物の頭をしたハイブリッドな人間が、美しいダンスを通して拮抗する様子、対立と調和を描いています。

この作品は、単に美しいコスモスを表しているのではなくて、ダム開発のような環境破壊に抵抗している作品です。実際に背景となっている水辺は破壊の現場でもあります。さらにSamnangさんは開発に向けた動きに抵抗し、実際に計画にも影響を与えてきた人物。この作品は、ある意味「政治的なアニミズム」とも言えるかもしれません。美しいだけではなく、アクチュアルな物語なのです。

日本のアーティスト大小島真木さんも、人間と人間ならざるものを包含するアニミズム思想を形にする媒介者的なアーティストです。

以下の作品は、人間と動物が一体となったキメラ像です。陶器の作品では、クマが魚を食べるのではなく、魚がクマを食べています。一般的なイメージが逆転し、そこに人間の胎児のイメージも重ねられている。キメラ的なイメージを挑戦的に使い、複数種の関係の絡まり合い、その変形を主題として引き受けているように感じます。

他にも、海洋調査船のタラ・ファウンデーション・スクーナー船に乗って、生物学者たちと一緒に鯨を観察、パフォーマンス作家たちとマルチメディア的な作品も制作しています。大小島さんのようなアーティストは、人間と人間ならざるものだけでなく、科学と芸術を媒介する存在と言えるかもしれません。

実は私自身、大小島さんと一緒にパフォーマンスを行ったことがあります。「山」をゲストに呼ぶイベントを開き、私は人類学者として、ゲストの言語を翻訳する役回りを演じました。種を超えた翻訳という媒介のプロセスが、人類学と芸術の両方で重要性を増していることを示している例かと思います。このイベントから大小島さんのドローイングの作品が生まれました。山と胎児が一体となったような作品です。さらに、その後『万物は語る』というプロジェクトでは、山や猿、糞、珊瑚、身体など、抽象的なものをゲストに呼び、さらに興味深い展開が生まれたそうです。

人間と人間ならざるものを包含する作品をみたうえで、人類学者のエドゥアルド・コーンの理論にも触れておきましょう。

コーンさんは著書『How Forest Think』のなかで、アマゾンの熱帯雨林を生きる様々な生き物が、それぞれのパースペクティブを持ち、互いに「自己」として振る舞いながら「他者」性のネットワークを築いているという理論を解説します。このネットワークが、数万年の時間をかけて進化、適応する生物の歴史、その土台となる関係性であると述べます。コーンさんはこれを『Ecology of Selves(諸自己の生態学)』と呼びます。「自己」というのは人間の専用物ではない、様々な生き物が「自己」を持っているのだという考え方です。

たとえば、コーンさんが研究した​​ルナ族の人々は、畑の穀物をついばむインコに対し、インコ除けのカカシを作ります。カカシは以下の写真のような猛禽類のオブジェです。人間から人間に向けた芸術ではなく、人間からインコに向けた記号であり、芸術作品。つまり種を超えたコミュニケーションを支える媒体なのです。

先ほどの獅子踊りも、元々は人間が鹿に対して匂いを嗅がせる行為である「かがし」から始まったという説があります。

人間と他種の関わりからみえる、未来のフォークロア

現実の世界と意味の世界、人間とそれ以外の生物など、さまざまなものの“媒介者”としての神話、それを表現する芸術。その切り離せない関わりを踏まえて、石倉氏は未来のフォークロアについて自身の実践を共有する。

石倉:
例の一つは、音楽家・映像作家の高木正勝さんとのコラボレーションです。初めて共に制作した『Tai Rei Tei Rio』は、CDと文庫本が一緒になった作品。私は彼の音楽と響き合う神話を収集する役割を担いました。高木さんとは『Homicevalo』という映像作品も制作しました。人間の女性と馬が神話的に結婚する映像作品で、人間と動物の種を超えた愛を描き出しています。タイトルの「Homicevalo」は、人間と動物の合成体を意味するエスペラント語の言葉です。

この作品が完成した後、私は高木さんに東北地方のおしら様という民話を紹介しました。すると興味深いことに、彼は「これはまさに『Homicevalo』を通して描きたかったものだ」と言うのです。作品が出来上がった後でしたから、高木さんは決して以前からおしら様を知っていたわけではありません。けれど、無意識のイメージの中で、すでにある神話と新しい作品が響き合ったのです。これは非常に興味深く感じました。

他の例も見てみましょう。オーストラリアのエミリー・カーメ・ウングワレーという有名なアーティストは、アル・ハル・クラという故郷の光景を通して、人間も宇宙の一部であるというテーマを繰り返し描きました。その作品群は、瞑想によって得られたビジョン、夢見の時代から続く世界の創造プロセスを、絵画に翻訳し、表したものでした。

彼女の暮らしたオーストラリアの先住民たちは、虹色の蛇の神話を通じて、雨や換気や世界のその気象の運動を表そうとしてきました。日本の神話でも大地の底に眠り、時折目を覚ます、暴れ回る存在として、自然現象が描かれています。それはかつて蛇や竜として、中世ではナマズとしてイメージされました。ナマズが動くことで地震が起きると人々は想像したのです。そのイメージは、ネガティブな意味を持つだけでなく、壊れた家の再建や経済の再開など、世界の更新も表していました。

こうした表現にもインスピレーションを受け、私は3名の仲間とともに、2019年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展に作品を出展しました。

この展示は、仲間の一人である美術家の下道基行さんの『津波石』という映像作品をベースにしたものです。津波石とは、巨大な津波の力で、海底から陸上に運ばれてきた石です。運ばれる過程で削られ、恐竜の卵のような形をしている。このイメージを、私たちは各地に伝わる「宇宙の卵から世界が生まれる」という物語と接続させ、新しい神話を紡ごうと試みたのです。

展示会場には、巨大なバルーンを設置し、人が座ると空気が自動的に送られる仕組みを構築しました。これは、実際に沖縄の島々に転がる津波石をみた経験や、その津波石が渡り鳥や昆虫のコロニーや現地の人々が信仰する聖地になっている様子から着想を得たものです。

私はそのバルーンの四方の壁に展示する“創作神話”を書きました。以下の写真は私の作った物語の一部です。文字は印刷するのではなく、壁に刻まれています。それによって津波や地震といったエネルギーの直接性や、神話の持つ歴史的な刻印としてのインパクトを表しました。


創作神話は、展示会場の天井から差す太陽の光を受けて、少女が12個の卵を産むという内容です。このインスタレーション自体が新しい神話であり、沖縄の海とヴェニスの海を繋げる装置でもあるのです。

期せずして、会場で流した音楽は、私の創作した神話とも呼応するものでした。私は現地のフォークロアを組み合わせて、12個の卵を産む少女の神話を作りました。仲間の一人である作曲家の安野太郎さんも同様に、現地の鳥の鳴き声を録音し、16のリコーダーの自動演奏によって、音を鳴らしていました。ぜひ実際の映像も見ていただけると嬉しいです。

最後に、「神話は多層的な意味をもつ」ということを共有したいと思います。

一つ目は、虚構やフィクションです。冒頭に話したような、単なる創造的な物語としての神話です。もう一つ奥にある層は、世界についての知覚や認識のフレームです。私たちの世界の見方や考えを示す神話です。最後の層は、私たちの意識できない領域でイメージや記号を変換する、いわゆる「創造的無意識」としての神話です。これが複数の種を超えたイメージを私たちにもたらしています。

このように神話は多層的なものであり、人間だけの世界ではなく、種を超えた共同性、日常的な意識を超えた深い現実感覚を呼び覚まします。

さらに神話は複数の次元をまたがるものです。岩石や土、風、火、水。古くから存在する地球上の物質や地球現象「GEOS」の次元、数億年の歴史の中で関係し、進化してきた生物「BIOS」の次元、そして現在の地球を改変し、大きな課題として歴史を作り出している人間「ANTHROPOS」の次元。これらが関係性を結んでいくのだと思います。

エマヌエーレ・コッチャが語った通り、私たち人間の身体は、先行する様々な動物や原子がパッチワーク状にブリコラージュされた一種のキメラです。

そして人間の共同体だけで、歴史や現実を定義することはできず、異なるものが一つの空間、一つの歴史に共存している。これを私は「共異体(Co-Heterogeneity)」と表現しています。そのなかで私たちの身体つまり「共異身体(Co-Different Body)」が絡まり合い、新しい未来の神話が生み出されていく。

それは、決して人間だけに閉ざされたものではなくて、世界に開かれた全体性を備え、複雑なネットワークの物語を紡ぎ出していくのです。

重力の発見は、人間と林檎のコラボレーション

続いて登壇したのは、サウンドアーティストのAntoine Bertin氏。科学と感覚的没入、フィールドレコーディングとサウンドストリーテリング、データと音楽作曲の交差する作品で知られる。幼少期の魚との出会いから、生物やサイエンス、音楽に興味を持つまでの道のりをたどり、人間とそれ以外の生物のつながりについて問いかけた。

Antoine Bertin氏(以下、Antoine):
私がサイエンスと音楽をかけあわせた芸術作品を作るようになるきっかけは、熱帯魚でした。原生林でもなく、深海でもなく、友人のアパートメントに置かれた水槽を泳ぐ、熱帯魚です。水槽から聞こえる微かな音に関心を抱いたのです。それは、生き物の世界、感動への入り口でした。当時、私は10歳でしたが、その音は路上を走る自動車と比べても、より広大なものなのだとわかりました。

ここで、少し皆様に質問をさせてください。以下のスライドのブランドロゴをどれくらい知っていますか?

では、次の植物たちはどうでしょうか?

恐らく、多くの人はブランドロゴの名前をより多く知っているでしょう。それほど私たちは自然のインプットを得る機会が少ないのです。
友人のアパートメントに置かれた水槽は、私にとって妄想への招待状でした。生物を観察し、関係を編み直すには?そんなことを考えながら、水槽の前で、ずっと一人で生態を見ていました。

その後しばらくして、両親がパリの公立の水族館に連れていってくれました。驚いたのは、水族館には世界中の魚が暮らしているとともに、魚料理を出すレストランも、同じ建物中にあったことです。

私は、人間がいかに生物に頼って生きているか、思い知らされた気がしました。人間は生物がいなくなったら生きていけません。数週間、数ヶ月、数年間で死んでしまうでしょう。だから、この世界の秘密は、決して人間だけに明かされるわけではないと考えるべきでしょう。重力だって林檎という果物とのコラボレーションで生まれたのですから。

この話と関連して『HEARING GRAVITY(重力を聴く)』という作品を紹介します。

ブラックホールは、宇宙の一部であり、重力が強く、光や時間や現実を捻じ曲げてしまう空間です。そんなブラックホールに私たちが突入したとき、時間の知覚は、どのように影響を受けるか、音を使って表現しました。作品は一回15分、一人ずつ体験する形式。音声によるイリュージョンと没入型のシアターを融合させた作品です。

この作品において、私は自分自身のコンポジションやオブジェクトを作るより、観客の暮らす現実と、別のリアリティの翻訳する役割を担ったと感じています。作品を紹介した短い映像もありますので、よければご覧ください。

HEARING GRAVITY
https://www.studioantoinebertin.com/art/hearing-gravity

音楽は、人間以外の生物なくしてあり得ない

ニュートンが林檎にインスパイアされて重力を理解したように。人間は他の生物とのつながり無くして、この世界について理解することはできない。Antoineさんは、そうした相互に影響する関係性を、自身の作品を通して表現し、伝えようと試みている。

Antoine:
たとえば、日光から酸素をつくる藻、水を浄化する貝は、水について多様な知識を持っています。実際に、ポーランドのとある街では、ムール貝にセンサーを設置し、定期的に水の状態を把握しているそうです。ムール貝が、生物を水の汚染から守る役割を果たしているわけですね。

他にも、ヤモリは宇宙空間で糊として使う物質を発明する手助けもしています。ヤモリの足の構造は、宇宙空間でも物質を接着をさせるために役立つからです。このように様々な生物が、人間の発明に関わっています。

さらに興味深いのは、「invent(発明する)」がラテン語の「invenio」に由来すること、そして「invenio」には「find to meet(たどりつく)」といった意味があることです。友人と通学中に出会ったり、森を歩いていて、地面に落ちているバナナの皮を見つけたりするイメージでしょうか。バナナといえば、人間は多くのDNAをバナナと分け合っていますね。

つまり、人間は世界の資源を奪うべきではありません。他の生物より自分たちが知的だと考えず、他の生物に耳を澄ませる必要があります。ちょうどミュージシャンが既存の音楽を再解釈して、生かし続けるように。

関連して『SPECIES COUNTERPOINT』という作品を紹介します。私たちが植物と60%のジーンを分け合っていることから着想を得ました。石倉さんのお話でも引用されていたエマヌエーレ・コッチャの言葉にも影響を受けています。

『SPECIES COUNTERPOINT』は、忘れられたストーリーを聞き、植物との関係性を瞑想によって感じる作品です。ピアノは二つのメロディを奏で、そのメロディは植物のDNAと人間のDNAから成ります。DNA配列を音に変換するソフトウェアを用いて作曲しました。

ピアノを製作してから気づいたのは、ピアノという楽器自体が、非常に多様な生物によって成り立っているということです。エボニーなど7種類の植物、牛やうさぎなどの動物、そして一部昆虫も用いられています。この楽器自体が相互依存性を示している。生物の多様性なしで、音楽も存在し得ないのです。

哲学者のヴィンシアン・デプレは、とある講演の中で「雨が降り、滝が流れ、川が流れ、海の波が流れ、地鳴りが生まれる」と述べ、それが音楽の始まりと語りました。その考え方に私も強く共鳴します。

また、私が音楽に惹かれるのは、形がなく捉え難いものを、形あるものとして体験できる点だと思います。音楽は有形であると同時に、抽象的でもあり得るものだからです。

人間以外の生き物の声を“聴く”という営み

人間が生物との関係を編み直すために、Antoine氏は音楽と科学をテーマにした作品を形にし続けてきた。その過程で人間以外の種の声を「聴く」ことへの考え方や実践を更新し続けている。

Antoine:
科学を勉強し始めたのは、音楽や楽器の機能、そして宇宙や地球の仕組みを知りたかったからです。科学は波の音やブラックホールについて沢山のことを教えてくれます。

日頃、科学的な発見の多くは知的な方法を通して伝えられます。論文やプレスリリース、カンファレンスなどですね。音楽と違って、誰も科学を“歌う”ことや“踊る”ことはしません。私たちは、人間が環境に与えた影響によって絶滅する生き物のために、黙祷を捧げることもしません。

せっかくですので、今日は小さな儀式を一緒に試してみましょう。2022年に「ハシジロキツツキ」と呼ばれる生物が絶滅しました。鳴き声を一度だけ再生しますので、目を閉じて、黙祷を捧げてみてください。

気候危機を乗り越えるために。今の黙祷のように、科学を触って感じ、体験しようとすることは、とても重要です。水族館や動物園、植物園では、収集された生物を観察できますが、私は芸術を含む複合的なアプローチが必要になると感じています。それらが、人間が種を超えた関係を築く手助けをしてくれるはずです。

ここで紹介したい作品が『Conversation Metabolite』です。オーディオによる瞑想を通して、海のマイクロバイオームの存在を体験できるインスタレーション作品です。海の中には、私たちの呼吸の半分を生産し、命を支える藻類がいます。そうした生命体の存在は日頃、目にすることはできません。だからこそ、耳を傾けて、その結びつきを彫刻したいと考えました。

この作品では、水中のサウンドスケープと代謝物濃度データを、音波化したものを織り交ぜて、音を作っています。科学者とともに、南大西洋のタラ・ファウンデーション・スクーナー船上で過ごし、必要な音を録りました。

Conversation Metabolite from Antoine Bertin on Vimeo.

23日間にわたる旅を通して、私は日光とプランクトンの間にある言語を、体感しようと試みました。そこにある浮遊詩(Floating Poetry)を感じようとしたのです。それは、目に見えないものに思いを馳せることに他なりません。

そして船で一緒に過ごした科学者は、7,000もの言葉を見つけ、解読しようと試みていました。船上での時間は、科学と芸術には共鳴しあう部分があるのだと、私に改めて教えてくれました。

とりわけデジタルの世界では、アーティストと科学者は、どちらも0と1で構成される情報を扱います。船の上で起きたようなコラボレーションによって、世界をより深く観察し、保存する新しい方法を発見できるはずだと期待しています。

最近では「聴く」営みについて色々なことを考えます。例えば、昔は音を聴くためには、自分の存在を消す必要があると思っていました。実際にフィールドレコーディングでは、周囲に影響を与えないよう自分は透明になろうと努めます。

ですが、聴くことは「観察される」ことでもあると思うようになりました。周囲の環境やエコシステムによって許され、受け入れられる必要があるのではないかと。とある哲学者が、野生の鹿に近づくために目の前で地面の草をむしり取って食べた、というエピソードがあります。それによって自分が鹿たちに受け入れられると考えたからです。これと同じ態度が私にも必要かもしれません。

聴く側も観察される側であるという考えを踏まえて、今私が制作しているラジオ番組『EDGE OF THE FOREST』では、録音する私という存在をなるべく消さないようにしています。

また、聴くことはガーデニングようなものだという気づきもありました。今、アーティストと一緒に、シスレーの島でガーデニングをしています。持続可能かつ多様な用途のあるリスニングスタジオを作ろうと考えているんです。

その島には、古くからイバラの植物が生息していたので、ガーデナーの友人に頼み、イバラを育ててもらっています。育て方によっては、イバラ以外の花や草木の成長が妨げられてしまうので、適度にイバラを伐採することもあります。その姿は、まさに植物たちの声を聴き、間をとりもつモデレーターだと感じました。リスニングアーティストとして、私も彼のようなモデレーターでありたいと思っています。人間と他の生物の間に立ち、多様な声を聴き、掬い上げる役割を果たしたいのです。

今オーディオデータはマシンラーニングと融合し、人間以外の生物の言葉を理解する手助けをしてくれています。いずれは人間のバイアスや理解を超えることができるかもしれません。一方、私たちはデジタルテクノロジーが会話を手助けしてくれるのを待つだけではなく、自ら生物との結びつきを取り戻そうとする必要があります。生物の多様性を祝福し、貝やトカゲ、藻類と話す方法を取り戻すのです。

最後に短いビデオで私の話を終えます。ここにいらっしゃる皆さんが、生物との新しい関係について考えるきっかけになることを願います。

EDGE OF THE FOREST
https://www.nts.live/shows/edge-of-a-forest

私たちが媒介者になるために何が必要か?

人類学から神話学、芸術と科学といった領域を横断し、人間以外の生物との結びつきやその可能性を探究するお二人。そのお話からは私たちを取り巻く環境や世界の捉え方を拡張するための手がかりが浮かび上がるようだった。
後半のトークセッションでは、ベルリン在住のエクスペリエンスデザイナー日比野紗希氏がモデレーターとなり、媒介者となるために問われる力やこの世界を「聴く」という行為について深掘りした。

日比野紗希氏(以下、日比野):
石倉さんのお話の中で、神話は人間と動物の区別がない時代に起こった物語であるというレヴィ=ストロースの言葉が出てきました。その後近代化が進み、私たちは他の種や物質と切り離されたような現実を生きています。こうした現実を超えて「人間と動物の区別がない時代」の感覚にアクセスするために何が必要でしょうか?お二人が“媒介者”として心がけていることや物事の捉え方があれば教えてください。

石倉:
私が心がけていることであり、Antoineさんの作品を通して感じたのは、自分の“身体”を通して世界を再び感じようとする大切さです。

Antoineさんの作品は、私たちが身体を使い、瞑想を通して世界を観察し、深く無意識を開く手助けをするものでした。人間だけではなく、貝やバナナ、微生物からも何かを学べるのだという態度があります。

そうした状態で世界に向き合うために、大切な力は二つあると考えています。一つは、自分の身体に立ち返り、探索する力です。自分の身体を確認し、自分とは何かを問い始めるのです。

二つ目は、媒介する力です。今、私たちは様々な媒介を失いつつあります。スマートフォンやパソコンの中に閉じ込められているとも言えます。Antoineさんの冒頭のスライドの通り、私たちは企業のロゴは無数に知っている一方で、植物に関する知識を失ってしまっている。もう一度自らを外に開放し、媒介する力を取り戻す必要があると思います。

私自身が神話学の研究に閉じず、アーティストとコラボレーションするのも、この二つの力を取り戻したいからです。

Antoine:
私が意識すべきだと思うのは、科学は決して、客観的な観察や実践のみを経て進化したわけではなく、科学者も固有の意見や考えを持っていたということです。

例えば、生物とのつながりについて科学者たちはバイアスを持っていました。それに私たちも影響を受けています。生物には人間と同じ知性は存在せず、話せないのだと最近まで思い込んでいたわけですから。そうした“客観的に正しい”と思われている基準線を、あえて揺さぶってみることも、時には重要だと思います。

そのためには何が必要でしょうか。答えの一つはフィクションや物語だと考えています。たとえば、人間の身体は一人ひとり異なる形で進化しているようにみえるけれど、根本的には同じ物質が変化しただけである。そうした物語を踏まえて世界を眺めてみると、私たちの考えは少し揺らぎ始めるでしょう。

そして変容のためには、頭で理解しようとするのではなく、身体的に体験することも重要です。音を聴くといった身体的な活動も、その一つですね。

日比野:
先ほどのお話の中でも、Antoineさんは「聴く」という行為の多様なあり方に触れていましたよね。その「聴く」という行為において、石倉さんがお話した共異体的な感覚、「自分自身も複数のものから成り立っている」という感覚を働かせること、個の差異のみに目を向けるのではなく、その奥にある関係性や繋がりを感じることは、とても大切かと思います。

一方で、現代社会を見つめたとき、差異による固定的な二項対立に囚われている場面も少なくないと感じます。そうした状況を打破するために、「聴く」という行為や共異体的な感覚は、どのように捉えられるでしょうか?

石倉:
共異体というアイデアは、多元的な世界を前提としています。

ここでいう多元性の構成要素の一つは「マルチセンサリー」です。聴くということは、単一の感覚ではなく、複数の感覚を伴うと捉えられます。今、私たちは「コンサートホールで音楽を聴く」や「美術館で絵を見る」というふうに分断した知覚で芸術を享受する、楽しむ文化に慣れています。しかし、21世紀の芸術にはマルチセンサリーが非常に重要だと考えています。

もう一つの要素は「マルチスピーシーズ」です。人間は生物の力がなければ、生きていけません。Antoineさんがおっしゃる通り、人間は林檎がないと重力を発見できなかった。人間は色んな生物と越境し、食べたり、感じたり、一緒にダンスをしながらしか生きていけない。もともとマルチスピーシーズな世界を生きています。

最後の要素は「マルチサイト」です。私たちは、ヨーロッパと日本をつないで会議ができる、グローバルな世界を生きています。物理的、地理的な位置に縛られていますが、複数の場所を同時に生きることもできる。私たちの生きている現実は複数あり、支え合い、助け合い、新たな物語を編んでいける。

こうした多元性や複数性への感覚を取り戻すことが大事になると思います。

Antoine:
「聴く」行為について興味深いのは、石倉さんが言った通り、マルチセンサリーな行為であることです。

その感覚を得るための出発点として、私たちの周りの生物が知性を持ち、異なる知覚を持つことを認める必要があります。マシンラーニングなどのテクノロジーは、人間以外の生物のコミュニケーションやそのパターンの理解を助けてくれるでしょう。

現代の私たちは、視覚情報に偏った文化を生きています。ですが、かつては印刷物など視覚的なものだけでなく、歌や音を通して物事をアーカイブしていたわけです。そうした方法も取り戻していくことで、人間や他の生物の持つ知識を保管し、共有していけるでしょう。だからこそ、私は音を聴くことに大変興味があるのです。

日比野:
お二人のお話を聞いて、音を聴くというときには、その中に埋め込まれた知性や文脈、ストーリーも聴こうとしているのだと感じさせられました。

私たちはこの世界の多元性や複数性を自らの身体を使ってどのように捉えていくのか。そのための瞑想的な営みを、ノイズの多い世界においてどう取り戻すのか。考え、実践するためのインスピーションを得ることができました。お二人ともありがとうございました。