デザイン思考の達成と、超えるべき課題

DDCは、1978年に設立されたデンマークの国立機関であり、デザインとイノベーションに関する研究と実践を重ねている。近年は、主に3つのトランジションのデザインに焦点を当て、課題解決や価値創造に取り組む。

・Green Transition:よりグリーンな未来をデザインする
・Digital Transition:倫理がデジタルインフラとして組み込まれた社会をデザインする
・Social Transition:社会の構造を問い直し、人間中心のインクルーシブな解決策をデザインする

『Expand: Stretching the Future by Design』の執筆にあたり、ベイソン氏は共著者であり起業家兼デザイン哲学者のイェンス・マーティン・スキブステッド氏とともに「デザインやデザイン思考の未来はどうなるのか?」について何度も議論を重ねたと言う。

「多くの方がご存知の通り、デザインは定義の広い領域です。基本的に、誰もが自分たちのよりよい生活のために物理的、人工的な環境をデザインしている。そして、なかには、より多くの利益、より多くの社会的インパクトを生み出すために、その能力を発揮する人もいる。そうした認識から、私たちの思考は出発しました」

デザインはどのように実践され、何を達成したのか。一つの事例として、ベイソン氏は米国の退役軍人向けのヘルスケアシステムを挙げる。2014年頃、多くの退役軍人が必要な診療サービスを受けられていない状況が明らかになり、米国内で議論を巻き起こしたそうだ。

その後、デザイナーのサラ・ブルックスが退役軍人省のチーフ・デザイン・オフィサーに任命され、サービスシステム全体の再設計に着手。サラを含むチームは、どの接点で人々と接しているのか、どのようなデジタルサービスを提供しているのかなど、既存のサービスの全体像を把握していった。

驚くべきことに、この組織は450ものWebサイトを抱えていた。まるで「“ロンドンの地下鉄”のような複雑で入り組んだ地図」をまとめた後、サラを含むチームは、新しいサービスのジャーニーを市民の生活と人生に沿って設計していく。

「兵役を終えて、軍を離れ、市民として暮らし、年齢を重ね、いずれはこの世を去る。そうした市民の体験を中心に据えて、保険や医療、社会福祉、就職など、すべてを設計していきました。結果的にたった一つのWebサイトにすべてのサービスを集約することができ、改善によって退役軍人からの信頼は25%も上昇したそうです。

こうしたデザインの実践例は世界中に存在します。人間中心設計、デザイン思考と言われるものを取り入れ、課題を解決した事例です。優れたデザイナーにとって、もはや特別な話ではないでしょう。とりわけデザイン思考は、ここ10年以上、企業や政府のなかで、デザイナーではない人の間でも実践されるようになりましたから」

デザイン思考の成果と達成に触れながらも、ベイソン氏はその「限界」を指摘する。とあるソフトウェア会社を訪問した際のエピソードを紹介しながら説明を加えた。

「私は、その会社がデザイン思考のためにつくったという部屋に案内されました。小さい部屋に、白い壁とポストイットが置かれている部屋です。もし、デザイン思考が、白い壁とポストイットだけの世界であると思われているなら、これは問題ではないかと思いました。

デザイン思考のプロセスやメソッドは便利かつ実用的なものです。けれど、それらを過大評価しているのではないかと感じることもあります。そこに情熱や愛、エネルギーがあるのか。ただプロセスに従うだけになっていないか、と。

他にも、美を形づくるための言語を持っているのか、長い時間軸を捉えられているのか、批評が十分に組み込まれているのかといった点も懸念しています。

デザイン思考は、プロセスやメソッド以上のものであるはずです。その上でデザインやデザイン思考はどこに向かうべきなのか。私たちは誰のために、何を、どのようにデザインするのか。それが著書で伝えたかったメッセージであり、考えたいことでした」

想像力を解き放ち、考えを拡張する6つの方法

誰のために、何を、どのようにデザインするのか。ベイソン氏は、それらを考えるための手がかりとして、1970年代初頭にチャールズ・イームズ氏とフランスのジャーナリストの間で行われた対話を紹介する。

ジャーナリストは、デザインの定義について複数の質問をした後、「デザインの境界線はどこにあると思いますか?」とたずねた。それに対してイームズ氏は「問題の境界線は何ですか?」と聞き返した。デザインの境界線を考えるなら、まずは問題の境界線を考える必要があるという、イームズ氏の捉え方が伺える。

イームズ氏の考えに沿うならば、デザイナーは課題の境界線がどこにあるのか、その変容をとらえ続ける必要があると、ベイソン氏は語る。

「対話が行われた1970年代も、世界はエネルギー危機をはじめとする課題を抱えていました。以来、地球上の人口は2倍以上になり、私たちをめぐる課題の境界線は大いに変化しています。解決の緊急度合いや必要なスピード、複雑性も増していると言えるでしょう。

そのなかで、デザイナーは課題の最前線に立ち、デザインの領域に出現した課題に向き合い、境界線を引き直し続けなければいけません。

とりわけテクノロジーの未来について、私たちはとても狭い考えに囚われていると思っています。そのうち機械が私たちよりも賢くなり、ユートピアかディストピアかどちらかに向かう。いずれにしてもテクノロジーが私たちの未来を決定するといった考え方です。

デザインは、こうしたこうした技術的決定論に挑戦を仕掛けるものだと私は考えています。デザインは、あらゆる人の未来を創造するものだからです。実際に、デザインによるイノベーションは、シリコンバレーやカリフォルニアの西海岸だけではなく世界中で起きているわけですから」

デザインによって未来を創造するために、ベイソン氏が提唱するのが、冒頭にも紹介した6つの拡張思考だ。それぞれについて簡単な定義を説明してくれた。

Time:思考の時間軸を広げ、多くの未来シナリオを考える
Promiximity:課題に対する身近さを感じてもらうデザインを考える
Life:何が生き物なのか、そうでないのかを考える
Value:私たちがデザインする価値とは何かを考える
Dimensions:人間と非人間、デジタルと物理など、複数の次元を捉える
Sectors:アカデミックやビジネス、市民などの連携を考える。

この6つの方向にマインドや思考をストレッチしていく考え方を、デザイナーやイノベーターに広めたいと考えていると言う。講演では「Time」と「Promiximity」「Value」を取り上げ、実例を紹介した。

一つ目が「Time」だ。どのような未来に向かってデザインするのか、より遠くの未来へ思考を広げていくことが重要だと、ベイソン氏は言う。事例として取り上げたのは、DDCが関わったメンタルヘルスの問題にまつわるデザインだ。

「デンマークでは、18歳の若者のうち6人に1人が精神科の診断を受けており、15〜25歳の少女の6人に1人が『自分は精神状態が良くない』と答えています。

このような課題に対して、私たちは2050年の未来を描きました。若者はもちろん、自治体や政策立案者、企業、デザイナーを巻き込んで具体的なシナリオを作成したのです。

ワークショップやデザインのプロセスには、若者も参加。精神医学やデジタルサービスとの関わり方、学校の仕組みなど、メンタルヘルスの問題の根っこにある原因を探究していきました。参加者の一人は『自分たちには、システムを変化させるための基盤があると気づいた』と答えてくれました。

このような活動で発揮されるデザインの力とは何でしょうか。一つは、参加者が積極的に参加するための手法やツールとしての力でしょう。そしてもう一つは、実際にどのような未来があり得るかを想像させる力です。

この取り組みでは、若者たちと描いたシナリオにもとづいて、架空の町の未来を想像しました。町名は『Vorby』。デンマーク語で私たちの町を意味します。実際に町の地図を作成し、教育や仕事、家族、メンタルヘルスへの支援が、どこにどのように存在するかをマッピングしました。さらに、ただ場所や施設を明らかにするだけでなく、その状況に人間や文脈を持ち込みたいと考え、短い映像作品も制作しました。

作成した映像作品は決して『未来はこうあるべきだ』と強制するものではありません。思考を刺激し、どういったことができるのか、私たちの考えを進め、洞察を得るために、架空の世界に命を吹き込んだのです」

課題の「近さ」を感じることから始まるデザイン

続いて、ベイソン氏が詳しく解説したのは「Promiximity」だ。倫理的な責任を持って行動するには、私たちは課題に「近づく」必要があるという。ベイソン氏がコペンハーゲンの赤十字社やオラファー・エリアソンの事例を紹介する。

「Proximityで考えたいのは、課題や状況に対して『どのように人々に身近さを感じ、行動を起こしてもらうのか』です。

たとえばコペンハーゲンの赤十字社では、赤十字の活動や難民に関する体験センターを設けています。体験センターではゴム製のブーツを履きます。そのブーツには泥のようなゲルが入っていて、湿った地面を歩いているような体験ができます。難民が歩んできた道のりの険しさを肌で感じることができるのです。彼らの置かれている状況を身近に感じ、難民キャンプでの支援の意義を理解し、行動を変えてもらうためのデザインです。

アイスランド出身のアーティストであるオラファー・エリアソンは、世界中の都市にグリーンランドから運んできた氷の大きな塊を配置する作品を発表しました。広場に溶けた氷を横たわらせるのです。これも観る人々に、この地球で何が起きているのかを感じさせる効果を発揮しています」

また、ベイソン氏はDDCの制作したツールキット『The Digital Ethics Compass』を紹介した。これはプロダクトを制作する際に、それが人間に及ぼす影響について検討するためのツールキットだ。オンラインで公開されているので、関心のある人はぜひ見てみてほしい。

最後にベイソン氏が紹介したのは「Value」だ。デザインの生み出す経済的な価値だけではなく、社会的・環境的価値について考えることの必要性について、ロバート・ケネディ氏の有名な演説を引用しながら紹介する。

「ケネディ氏は、GDPは国家の財政状態を測るものである一方、私たちの生きがいを測るものではないと述べました。例えば、戦争によって支出が増えたり、交通事故や病気が増えたりすれば、GDPにとってプラスに働くこともあるのだ、と。

残念ながら彼が亡くなった1968年以来、どの国もGDPに代わる答えに辿り着いていません。幸福やウェルビーイングにまつわる新たな指標を探しているにもかかわらずです。デンマークは地球上で最も幸せな国と評価されていますが、政府はそれよりもGDPを測定し続けています。

その中で、デザインやデザイナーの役割は、価値を問い直すことだと思っています。たとえば、2020年に欧州委員会はより環境負荷の低い、グリーンな都市に移行するための『The New European Bauhaus』というビジョンを掲げました。DDCも取り組みに参加し、持続可能かつ美しく、インクルーシブな都市を作るにはどうするか、ヨーロッパのいくつかのソーシャルハウジングと連携して探究しています。デンマークのソーシャルハウジングが位置する場所は、暴力と貧困のイメージと紐づいていた場所です。

そうした場所からよりよい未来を創造するために。私たちは財務以外のパラメーターを考え直し、社会的・経済的・環境的な価値のバランスを図っています」

そしてベイソン氏は、拡張思考を参考に「考えるだけ」ではなく、アクションに移すためのフレームワークを紹介した。具体的には「課題に対する既存の枠組みを疑うため」「課題やアイディエーション、コンセプト開発のため」「プロトタイプのテストのため」に活用できると言う。以下が3つの関係を表した図だ。

最後にベイソン氏は拡張思考を使ってアクションを起こす大切さを強調し、共に持続可能な未来を創造する担い手たちにこう呼びかける。

「拡張機能は、あくまでアイデアであり、異なる考え方をするための私たちからの提案です。考えるだけでは価値は生み出せません。私たちを含むデザインコミュニティがどのようにアクションを起こせるかが重要です。アイデアの力は一度手に入れたらもう元の次元には戻りません。今日話したような考え方に共鳴する方、近しい探究をされている方がいたら、私たちのスライドやツールキットを喜んで共有します」

ベイソン氏が最後に強調した通り、DDCのウェブサイトには上記を含む多様なツールキットが公開されている。関心を持った方は著書と合わせてぜひチェックしてみてほしい。