「ビジネスと人権に関する指導原則」の成り立ちと運用

2011年、国連の人権理事会で全会一致で承認されたのが「ビジネスと人権に関する指導原則」である。

菅原氏によると、ここに至った過程に大きな特徴があった。

企業による人権侵害は、1970年代から問題提起されていた。国連ではこの問題を解決すべく過去2度にわたり同様の文書作成を試みたが、合意形成に失敗。2011年の承認は三度目の正直で、しかも全会一致は特筆すべき快挙だった。

この偉業を成し遂げたのが『JUST BUSINESS』著者のジョン・ラギー氏だ。ラギー氏はアナン元国連事務総長の右腕として国連グローバル・コンパクト(国連の諸目標達成をひとつの目的とした、一般企業・団体によるイニシアティブ)を設立した人物だが、過去2度の失敗を教訓に、彼は2005年の国連事務総長特別代表任命から6年にわたってステークホルダーと対話を重ねた。ジョン・ラギー氏は社会構成主義(*)の立場をとり、法律や条約の制定をゴールに据えることなく、人々のあいだでコミュニケーションされることで人権侵害に対する考えが社会的に存在していくものと考えていた。

(*筆者注…社会構成主義とは、日々の会話や言葉のコミュニケーションによって、世界に対する認知が形づくられるという考え)

指導原則は、企業にとって大切な文書だ。ESG投資や持続可能な調達と消費の基準になっていると言えば、身近なものだと気づくだろう。そして一般原則は、指導原則がどのような考えに基づき、誰に適用され、どのように扱われるべきかが述べられた文書だ。菅原氏によると、指導原則は、その冒頭の一般原則に基づいて解釈されるのだという。

世界の共通枠組みとしての指導原則は、多様な主体によって多層的に実践される。そこで国連は原則の運用を支援するために、国際連合人権高等弁務官事務所(以下、OHCHR)が指導原則と一般原則の解釈を担っている。

指導原則は、持続可能な社会の実現に向けた羅針盤に

人権侵害を取り巻く議論は、大きく変化してきた。指導原則が起草された当時、人権侵害の大きな問題はガバナンスギャップだった。

ガバナンスギャップとは、多国籍企業が進出先の国で引き起こした人権侵害に対し、その受入国政府が侵害を救済する役割を果たせないほどにガバナンスに差があること。受入国政府がガバナンスギャップを克服できなかったことで、国家を中心とした国際人権基準の保障に限界が見えていた。

2011年に指導原則が成立して、状況に変化が生まれた。6年にわたる起草過程で、政府、国際機関はもちろん、企業やステークホルダーともエンゲージメントしながら起草された指導原則は、成立後は多様な主体によって多層的に実施されるようになった。さらに、2015年に持続可能な開発目標(SDGs)が登場すると、企業は SDGs を実現する主体として、サプライチェーン全体に人権尊重を盛り込むことが重要だと認知され、取り組まれるようになった。

ガバナンスギャップの問題はまだなくならないが、時間の経過とともに、人権尊重のための指導原則は、持続可能な社会の実現に向けた羅針盤として機能していると菅原氏は述べた。

企業は人権尊重の責任をどのように負うのか

ここから、企業の責任範囲を具体的に見ていく。まず、指導原則を支える三つの柱を紹介しよう。

第一は、しかるべき政策、規制、及び司法的裁定を通して、企業を含む第三者による人権侵害から保護するという国家の義務である。第二は、人権を尊重するという企業の責任である。これは、企業が他者の権利を侵害することを回避するために、また企業が絡んだ人権侵害状況に対処するためにデュー・ディリジェンスを実施して行動すべきであることを意味する。第三は、犠牲者が、司法的、非司法的を問わず、実効的な救済の手段にもっと容易にアクセスできるようにする必要があるということである。(出典:ビジネスと人権に関する指導原則

菅原氏は、第二の柱である企業の責任について議論を展開した。

一般原則に基づいて指導原則13、17、19、22を整理すると、企業の活動・取引関係における人権尊重の企業責任には3つのパターンがあるそうだ(図を参照)。パターンによって、人権の負の影響を受ける個人と企業の関係が異なる。

菅原氏は、3つのパターンを理解するために企業責任の範囲の違いを説明した。図のナンバリングに従うと、パターン1の惹起とパターン2の助長では、企業は人権の負の影響の防止・軽減および是正の責任を負う。そして、パターン3の直接関連では、防止・軽減の責任を負うが、是正の責任までは負わない(ただし指導原則の原則22解説にあるとおり、是正・救済の役割を担うことはある)。

OHCHRは、これらのパターンに対する質問に回答したり、関連する文書の公表に勧告(recommendation)したりすることで、さらに詳細の解釈を示す。ここでは、そのうち二つの事例を紹介する。

英国のバークレイズ銀行、スイスのUBS銀行といった世界有数のメガバンクで、Thun Groupと呼ばれるグループがある。彼らは2013年、金融業界が指導原則に適応することを目的に、OHCHRにディスカッションペーパーを提出した。「クライアントの事業において人権侵害が生じた場合、銀行は『直接関連』にはなりうるが『惹起』また『助長』ではない」という趣旨の内容で、是正の責任を負わない立場が示されていた。

OHCHRは、銀行業務でも助長にあたる可能性があると回答した。人権の負の影響を、銀行が知っていた、もしくは知っていたはずの場合が助長にあたるそうだ。たとえば、デューデリジェンスを十分に実施しなかった場合や、防止・軽減の対策を怠った場合である。この回答により、直接関連が助長に発展する可能性があることと、直接関連であっても是正・救済が大いに歓迎されることが分かった。

二つ目の事例は、人権デューデリジェンスの法制化に対する勧告だ。人権デューデリジェンスの法律は、イギリス、フランス、ドイツと次々に成立している。これらの動きに追随して、2022年にEUの欧州委員会が発表した指令案がOHCHRの勧告を受けた。

EUのコーポレートサステイナビリティ・デューデリジェンス指令案には、企業がデューデリジェンスを負う範囲が「確立したビジネス関係(established business relation)」がある主体に限定されていた。そのため、OHCHRは文言の削除を勧告し、事業、商品またはサービスに直接関係する負の影響に企業は責任を負うことと、それは契約関係によらないことを示した。(なお、「確立したビジネス関係」はEU理事会の議論において否定(削除)された。)

ビジネスと人権の新たな方向性

菅原氏はさらに別の議論を2つ紹介した。いずれも紛争・軍事に関わる内容だが、後者はサプライチェーンに関する企業責任という観点からも興味深い。まず、紛争状況における企業の責任から見ていく。

2020年、国連のビジネスと人権ワーキンググループは、武力紛争、軍事占領、紛争後など、いわゆる紛争状況での企業の責任を明らかにするレポートを公開した。ビジネスは紛争状況で中立の立場にいることはできないと明記されたことでも注目されたレポートだ。

紛争状況では、企業による「責任ある撤退」が求められる。一体、どういうことか。これは、紛争状況になったからといって撤退が正しいとは限らないことを主張する言葉と言えよう。ステークホルダーに負の影響をもたらす場合、企業はその存在を考慮し、その地に残留する意思決定もあり得る。そのような状況に陥ったビジネスを、捕らわれのビジネス(Captive Business)という。撤退の経営判断には、人権デューデリジェンスが欠かせず、政府からの要求や地域で果たせる役割など多面的な考慮が必要だ。もちろん、完全撤退だけでなく事業停止、取引停止など様々な選択肢があることも添えておく。

2つ目の議論は、サプライチェーンの下流に対する企業の責任についてだ。

2021年、デンマークの調査メディア・研究センターのDanwatchからOHCHRにある質問が寄せられた。質問は、軍事ソフトウェアの輸出について「テクノロジー企業は、ソフトウェアが誰によってどのように使用されるかについてデューデリジェンスの責任を負うか」という内容だった。

これには、多くのソフトウェア企業が関心を寄せたのではないだろうか。OHCHRの回答を要約すると、こうだ。

・テクノロジー企業を含む全ての企業は人権尊重責任を負う
・事業活動全体に対して人権デューデリジェンスを実施すべきである
・軍事目的でソフトウェア及びITシステムを紛争影響地域で販売する企業は、人権デューデリジェンスの強化を実施するよう期待されている

つまり、自社製品が誰にどのような目的で利用されているかを企業は知るべきだという回答だった。相手が国であろうと、政府であろうと、企業は人権侵害を回避すべきである。そして、サプライチェーンの下流に対しても、企業が責任を負うことが分かった。

果たして、実践できるのだろうか。それはこれからの課題だ。

近年の紛争といえば、イスラエル政府による入植活動やミャンマーのクーデター、ロシアのウクライナ侵攻がある。国や企業の動向調査と人権尊重のための勧告は今も続いている。こうした事例を通じて企業の責任が明らかになること、そして実践の知恵が豊かになることが待たれる。

最後に、菅原氏は、人権侵害の解消に向けて着実に前進していることを評価した。持続可能な社会に向けて、企業はデューデリジェンスの手法を絶えず変化させていくことになる。そのために、こうした最新の議論を取り入れることの重要性を確認し、講演を終えた。

「ビジネスと人権に関する指導原則」の全会一致に際して、ジョン・ラギー氏が2011年に国連に提出した報告書には、指導原則の成り立ちの詳細、そして企業がどのように指導原則を使うべきかが書かれている。本記事ではその一部を紹介したが、企業経営者におかれてはこちらもどうぞ。

編集後記:自社サービスがどのように使われるかに企業が責任を負う

菅原氏は重要な課題をいくつも提示した。以前から、責任あるサプライチェーンの整備は国際的に要請されてきた。だが、ソフトウェア企業がサプライチェーンの川下に責任を負うことは、新たな資本主義の様式となるのではないか。ここでは、SaaS(Software as a Service)を提供する企業の今後を考察する。

まず、今回の企業責任の解釈を明らかにした Danwatch の質問は軍事産業に限定されていた。軍事産業は遠い存在ではない。軍事産業を抱える企業、軍事的な状況下に置かれた企業、自衛隊との関わりなどによって注視すべきこととなる。国際人道法に違反しないこと、人権規範を遵守していることが大切になる。

また、軍事産業特有の問題に限らずサプライチェーンの川下に人権責任を負うならば、対処しなければならない事象は様々だ。たとえば、SaaSのユーザーがサービスプラットフォーム内で自由に発言できる場合、以下を防止・軽減することが必要だ。

ヘイト、暴露、差別、いじめ

これらが起きたとき、企業はどのような策を講じるだろうか。プラットフォーマーの前例を踏まえれば、注意喚起の警告を出し、ユーザーがルールを守れない場合はサービスの利用を停止するかもしれない。ただ、ユーザーと企業はそのような関係でいいのだろうか。対処療法的な方法だけではやっていけないはずだ。

サービス提供者とサービス利用者は、互いに慎重になるのかもしれない。人と人として出会い、相性のよさを確認し、徐々にサービス利用を開始するような。法令違反や人権侵害の発生を未然に防ぐための試みはすでに始まっている。今後、多くの会社が、社内外の人権侵害に対処していく。人権侵害が引き起こされる構造的課題を理解し、環境に対処することがなにより大切だ。

世界人権宣言
第1条「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」