北インドメガラヤ州の村では、ゴムの木の根を絡ませて橋をかける。成長する根を巻き続け、約40年かけて人が渡れる橋にする。雨季に増水しても、水は根をすり抜けて壊れにくい。「根の橋」は、村の大事な交通手段になるだけでなく、宗教的に重要なものとされ、人々の精神的支柱になっている。

植物繊維でかごや縄を作るのは、旧石器時代から人類が継承してきた技術だ。しかし、そんな技術を“古い”とみなす人も増えたのではないだろうか。現代社会に目を向けると、プラスチック製品や化学製品など、自然を活かしていない人工物で溢れかえってしまった。

私たちは、人工物との新しい付き合い方を探求しなくてはいけない。一般社団法人Deep Care Labによる、ウェルビーイングを探求する対話・実験の学び場『Weのがっこう』では、10月14日〜15日にかけて「わたしと人工物・モノ」というモジュールを開講した。

同モジュールでは、アイヌ民族の儀礼である「イオマンテ」を模したワークショップが開催され、参加者は「捨てたいけど、捨てられないモノ」と向き合った。さらに、ゲストである秋田公立美術大学 石倉敏明氏は、人類と人工物の歴史を紐解きつつ、「一見、役に立たない芸術をなぜ必要とするか?」「そもそもなぜ芸術が生まれたか?」という問いを投げかけた。

モノとの付き合い方に正解などない。だから、本記事と一緒に悩み、考え、いつかあなたなりの「正解らしきもの」にたどり着いてほしい。

イオマンテで参加者が辿り着いた「捨てない」という決断

日本列島北部の先住民族であるアイヌには「カムイ」という言葉がある。

魂を持って活動するものすべてにカムイが宿り、虫や動物などの生物だけでなく、雷や雲など自然物もカムイであるとされている。

特に、熊は狩猟の対象でありつつ、「キムンカムイ(山の神)」として信仰されている。そして、命をいただく際には「人間世界」から「神々の国」にキムンカムイを送る「イオマンテ」という儀式を行う。詳細な儀礼方法はここでは省くが、熊の肉体に酒や料理を捧げ、旅立ちに向けて饗宴をする。


同モジュールのワークショップでは「なかなか捨てられないモノ」を参加者が持ち寄り、モノに宿るカヌイを感じるために、感謝の手紙を書いたり、さらには、モノが喜ぶであろう食べ物や飲み物を捧げて感謝の宴をした。

ワークショップに参加した筆者が印象的だったのは「『これは大切なものだ』と気づいたから捨てない」と決断した参加者が数名いたことだ。以下、印象に残っている言葉を紹介する。

「最初は、貰い物である着物や陶器を捨てようとしました。でも、手紙を書いたり、捧げ物をどれにしようか考えていると、やっぱり捨てられないなと……。巡り巡って受け継いだモノたちを、私が捨てるわけにはいかないと思い、大切にすることにしました」

「一人暮らしをしていたときからある『使っていない目覚まし時計』を持ってきました。もう壊れていて、愛着もないと思っていたのですが、ワークを通して『長い時間この目覚まし時計と一緒に過ごしていた』ということに気づいて。私が家にいない間も見守ってくれていたんだと思うと、捨てる意味が見つからなかったんです」

モノに溢れる世界で生活していると「これが大切だ」と気づくのはなかなか難しい。筆者は、2022年9月に初めて被災地を訪れたときのことを思い出した。ある喫茶店は、建物は残ったが、店内のモノはほぼ津波で流されてしまった。さまざまな葛藤があっただろうと推測するが、常連さんが撮影していた被災前の店内写真をもとに、被災前と近しい状態に戻したという。

モノは突き詰めると全て自然から生まれる。そして、自然の脅威によって一瞬で壊されることもある。私たち人間にとって、モノとはどのような存在なのだろうか。

そのヒントを探るためにも、秋田公立美術大学 石倉敏明氏の鼎談を踏まえて、参加者が対話を重ねていった。

神話や想いを共有するために芸術がある

石倉氏は芸術人類学を専門とし、自然と文化の垣根を越えて「人間とはなにか」を探求している。「工芸や芸術に、人を理解するヒントが現れる」と語る石倉氏は、先住民族による芸術を紹介した。

石倉氏:北米大陸に暮らしている先住民「ハイダ族」の母を持つBill Reidは、ハイダ族の伝統的な彫刻技術を学び『ワタリガラスと最初の人々』という作品を残している。この作品はハイダ族の神話を表しています。

石倉氏:同じくハイダ族のアーティストRobert Davidsonは、熊が世界を抱いているグリーティングカードを作成して、人々に配っています。先住民の視点とグローバル化した世界を踏まえてデザインしているそうです。

また、先住民族ではないですが、バンクーバー出身のMarcus Bowcottは、杉の巨木にスクラップ工場から寄付された自動車を積み重ねた巨大なトーテムポール(《Trans Am Totem》)を制作しました。この土地は、かつては自然に恵まれた土地でしたが、イギリス人の入植後、工業地帯に変わったという歴史があります。その歴史を踏まえて、彼は現代の消費文化を批評するトーテムポール作品を建てたようです。

こうしてカナダの先住民芸術や現代芸術の例を見ると、家に飾るようなプライベートな存在だった芸術作品が、今再び公共的な存在へと変わりつつあることがわかります。芸術作品は実用的な道具と比較すると直接生活の役には立たないように思えるかもしれませんが、人びとの共通の記憶を伝承する神話をイメージ化して、目に見えない感覚や人間ではない諸々の存在との関係を更新する重要な役割を担っていることがわかります。

石倉さんによれば、人類のなかでもっとも古い芸術表現の一つは、約7万年前の「アフリカのボツワナにある蛇の造形」だと言われているそうだ。人類の歴史は、道具が作られ、抽象芸術ができるようになるまで20万年の歳月をかけたという。

石倉氏:人類が抽象芸術を作れるようになったのは、脳のニューロンの接続様式が変わり、心にビックバンが発生したのではという説があります。これにより、身につけた技術を応用して芸術表現を行ったり、象徴として次の世代に体験を継承したり、宗教や神話を通して目に見えない超越性を表現できるようになりました。

象徴的なのは、人間の命を奪い、警戒すべき対象だった洞穴ライオンが、守護霊のような存在へと変わった可能性があることです。例えば、約32,000年前に制作されたと推定される「ライオンマン」がドイツの洞窟で発見されています。体は人間、頭部はライオンであるライオンマンは、現実には存在しないキメラの彫刻です。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、このような彫刻は「ライオンだ、気をつけろ!」という警告から「ライオンは我が部族の守護霊だ」という虚構の物語を生み出す大きな変化を表している、と考えました。人間は例えばこのようにシンボリックな彫刻を通じて、他者に「ライオンは我が部族の守護霊だ」と伝えていた可能性があります。

ユヴァル・ノア・ハラリによれば、「ライオンマン」が見つかった洞窟の近くに、フランスの自動車メーカー「プジョー」の工場があるそうです。プジョーのエンブレムには、実はライオンが使われており、威信や美しさ、信頼を感じる、と石倉氏。この人類の進化を踏まえて、「人工的な世界や新たな世界を示せるようになった」と言い、 同氏は芸術の二つの側面を紹介した。

石倉氏:一つは、正しい因果関係を理解し、宇宙と人間の成り立ちを類推。道具を使って世界に働きかけ、現実社会にないものを作り出します。これは、芸術よりも人工物に似ていますね。

もう一つは、宇宙の秩序やリズムを感受し、身体やモノの世界を表現する。心の中にあるものを、外の世界で現実化するやり方です。

自然・生き物と人類が共存するために媒介する

一般的に美術大学では、「ギリシャ・ローマ神話の彫刻などが入試のデッサン課題になることがあり、『美の基準』だと教えられることが多い」と石倉氏は言う。一方で、「朽ちずに、受け継がれる芸術だけが、美しさではない」と主張する石倉氏は、秋田で古くから信仰されている「人形道祖神」の一種「鹿島様」を紹介した。

石倉氏:鹿島様とは、稲藁で作られた巨大な「人形道祖神」です。村に疫病などの災厄が入ってこないように作られています。道はずれや神社の裏手に置かれていて、思わずギョッとしてしまう見た目なのですが(笑)。

毎年、農家の主婦や子どもたちが作り続けていて、素材は稲藁なので基本的に無料です。そして、放っておけば朽ちていき、稲の収穫時になると、また作るというサイクルです。ヨーロッパのように自然と人間、自然と神を分ける二元論的な捉え方がある一方で、鹿島様のように自然に内在する神様もいるのです。

※外部からの悪疫等の侵入を防ぎ、村人を守るために村境や峠、辻、橋のたもとなどに祀られる

神様と自然を分離せず、一体となって生きていく。それは、青森県西部津軽地方の「虫送り」という行事にも共通することだという。虫送りは、害虫駆除・予防を祈願する農耕儀礼である。むかし、イナゴの大群発生で稲が全滅してしまい、多くの飢餓者が出てしまったことから始まっている。

石倉氏:最初、「虫は稲を害する煩わしいもので、なるべく発生しないように虫送りをするんだ」と思っていたら、地元の方に怒られてしまって。「虫は田んぼを守ってくれる神様だ」と語るんです。

虫送りは、地獄に送るのではなく、むしろ浄土に送る、異界にお返しするという意味が込められているそうです。また虫が発生する可能性はあるけど、それでも虫との共存を目指す。これは一種の民族的な思想なのかなと感じています。

自然に還らないモノの中で生活する私たちはどう生きる?

人が自然物でモノを作り、いずれ朽ちていく。ひと昔前は、このサイクルの中で生きていた。しかし、高度経済成長期からプラスチック製品が急激に増え、私たちは「朽ちないモノ」のなかで生きている。「21世紀の新しい循環」を作らないといけないと石倉氏は考えており、藤浩志さんの活動を紹介した。

石倉氏:藤浩志さんは「かえっこ」というおもちゃの交換できる場を作りました。子どもがおもちゃを置いておけば、別のおもちゃを持って帰ることができる、という仕組みです。それを続けている中で、破損したり、すでにみんな持っていたり、「残り続けるおもちゃの破片」が増えてきたんです。

藤浩志さんは、そんな「残ったおもちゃの一部」を使って、恐竜や怪獣などのアート作品を作っています。何千という大量のおもちゃの破片を、色別・種類別にビニール袋に分けて、世界中で展示をしています。

プラスチックが大量に使われる一方で、欧米ではキノコレザーなどバイオ素材が流行している。そんな状況に参加者は「地球に優しい取り組みなのは理解しつつ、自然をてなづけているような違和感を抱く」と共有してくれた。

石倉氏:自然に還りやすい素材を使う大切さもあるが、命を奪って生きているという暴力性にも向き合わないといけない。でも、暴力性をそのまま提示すればいいという話でないのです。暴力性を踏まえて、どう伝えていくかは、アーティストのひとつの役割かなと思います。

神話で「自然」と「人工」が繋がっていく

第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館で、人間同士や人間と非人間の「共存」「共生」をテーマに「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」という展示が開催された人類学者である石倉氏が美術家・作曲家・建築家・キュレーターという異なる専門家と協働して、会場となる日本館での展示を完成させた。

同展覧会では、「大津波が襲来して世界が崩壊する」という終末の神話、そして「少女が卵を産んで新しい世界の祖先が生まれる」という卵生モチーフを伴う世界創造神話を研究。そのをもとに新たな「創作神話」を制作し、会場の壁面に文字を直接掘り込んでいった。石倉氏は、展示期間中にとても不可解な経験をしたと言う。

石倉氏:実は、ヴェネチア・ビエンナーレ国際芸術祭のオープニングの前日に、日本館の屋根で本物の鳥の卵が見つかったんです。そして、最終日のヴェネチアは、高潮に追われて、広場中が水浸しになってしまいました。僕が作った神話は、津波で始まって卵で終わる「ループ構造」でできていて、展示でも音楽や映像もぐるぐると反復再生されるようにできていました。面白いことに、現実の展覧会ではこの関係がひっくり返ってしまったんです。神話と現実は互いに入れ子のように混ざり合っていて、こんなふうに関係性がひっくり返ることがあります。

私は神話を媒介に「自然」と「人工」が繋がっていくことが大事なポイントだと思っています。動植物、昆虫、菌類、人類の死者と生者。こういった生命体の歴史、そして20万年という人工物の歴史を踏まえて、「自然」と「人工」が絡み合い、互いに包み込み合いながら21世紀の風景を作っているんだと考えています。

モノとの付き合いを探求すると、私たちはただ単にモノだけと向き合っているわけではないとわかった。誰かに何かを“共有”するために芸術が作られたり、生き物や自然と“共存”するために儀礼や神話があったり。モノとの対話を容易にするために、それらが媒介者となっているのかもしれない。

身の回りにあるモノは、あなたにどんなことを語りかけているだろうか。
忙しい日々に、少しだけ時間を与えて、そっと声を聞いてみてほしい。