京都で暮らし始めて2年目になる。築数百年経つ町家が軒を並べていたり、歴史ある呉服店や工芸店があまりにも多いことに、移住当初は驚いた。そんな中で過ごしていると「千年前、いやもっと昔から、変わらずここには人がいたんだ」とその土地で暮らしていた先人の気配を感じることがある。

また京都では、先人たちが残してくれたものを、未来に残していく活動が活発だ。町屋の雰囲気を残し、過ごしやすいようリノベーションして飲食店をオープンしたり、伝統技術を活かして、現代の生活に馴染んだ商品を開発したりする老舗は多い。

祖先が積み上げてきたから“今”がある。そして“未来”にどう紡いでいくか────。

忙しい日々のなかでは、忘れがちなことを痛切に感じる。10分単位で刻まれてるミーティング、すぐに情報が更新されるSNS。そんなものに追われ、踊らされているのは、私だけではないだろう。

過去、現在、未来と続くなかで、未来に想いを馳せる時間を確保しにくい。祖先たちがギフトを残してくれたように、私たちは未来に何か残せるよう生きているだろうか。

そんな問いに向き合わせてくれたのは、一般社団法人Deep Care Labが主催する「Weのがっこう」だ。同オンラインプログラムは、気候危機の時代に、さまざまな角度からウェルビーイングを探求する対話・実験の学び場である。

10月28日〜29日は、「わたしの過去・祖先」というテーマで、モジュールが開講された。1日目は、1970年に生まれた人になりきって、現代を生きる人と対話をするワークショップが実施された。2日目は、『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』の翻訳者であり、光明寺の僧侶でもある松本紹圭さんをゲストに招いて参加者と対話を重ねた。

2021年、同氏は住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開き、宗派や地域を超えた若手僧侶の卒業生を輩出した。現在は、企業に勤める社員が、無目的な対話の時間や相談が自由にできる「産業僧」を実施している。

「過去や死者に目を向けることは、未来とも繋がっていって、そして現在の生き方を問うものです。そのためにもまずは、祖先と繋がることを意識してみてください」

法事や葬式など僧侶としての活動を通じて、「祖先」とはなにかという問いに向き合うことになったという松本氏。参加者は「祖先とつながるワークショップ」を体験した後に、松本氏との対話を通じて「よき祖先にどうなるか」を考えた。

1970年代を生きている人たちと気候変動について話そう

祖先から受け取ってきたものを自覚し、そして未来の子孫に向かって何を残していくか考えていく。これは一体、どれくらい難しいことなのだろうか。まずは、「過去」を生きていた人が「現在」をどれくらい想像できていたかを実感するため「祖先との疑似的な対話」を実施した。チームの1人が1970年を生きる人になりきり、もう1人が「モノ」を通じて気候危機の現状を伝え、「あなたにこうしてほしかった」と要求するワークショップだ。

1964年に東京オリンピックが、1970年に大阪万博が開催された影響もあり、1973年までの日本は高度経済成長期と呼ばれた。一方で、経済成長を支えていた急速な工業化により公害が発生し、1967年には公害対策基本法、1971年には環境庁が発足。豊かさとその弊害が現れたのが1970年代だ。

そして工業化により、急速にプラスチック製品が増えた時代でもある。参加者たちは気候危機を伝えるために、ビニール傘やペットボトルなどプラスチック製品を持ってくる人が多かった。

現代を生きる人役「私が紹介するのは、軽くて使いやすいペットボトルです。やかんでお茶を沸かさなくていいし、これがあるおかげで、どこでも飲み物が買える。でも、今はペットボトルが溢れかえってるんです。ペットボトルの素材であるプラスチックは軽くて丈夫ですが、一方で地球に大きな影響を与えてるんです」

1970年に生きる人役「でも、私が生きているときは、ペットボトルはなかったので、どうしようもできないですよね?瓶に比べて軽いですし、ペットボトルもいいじゃないですか。羨ましいです」

ペットボトルという存在も、気候危機も、なかなか理解してくれない。「モノ」を通じて現代の気候危機を1970年代を生きる人に伝えようとする人のもどかしさを筆者は感じた。さらに、無いものを、まだ発生していないことを想像させるのは、なかなか難しい。そんな中、筆者が印象的だったのは、高校生の参加者が持ってきた「私自身」だった。

高校生「私は16歳で、自分の未来は全然ないと思っています。気候変動のタイムリミットを伝える『Climate Clock』によると、約6年しか残されていない。高校で進路相談をしていても『私の人生ないのでは?』という思いにとらわれることがあります。高度経済成長期で公害も増えてきた1970年に、もっとアクションしてほしかったです」

高度経済成長期の恩恵で、生活は便利になった。一方で、「私たちに未来はない」と主張する高校生がいる。私たちは祖先とどう対話をしていけばいいのだろうか。そして、まだ見ない未来をどう想像して、今ある選択肢を選べばいいのだろうか。

死者に向き合うことは、未来の人から私たちに向けられる眼差し

WSの翌日の対話の場の冒頭、仏道に入って約20年の松本氏が、仏教の構造について簡単に共有した。

松本氏:私は仏教というものは、二層になっていると考えています。一層目は、いわば先祖供養。ご法事やお葬式など、死者を中心とした世界です。これはみなさんがイメージする僧侶に近いのではないでしょうか。

二層目は、どう生きていくかという仏の教えである「仏道」です。いわば、生きている人の世界です。例えば、座禅とかマインドフルネスなども当てはまると思っています。

松本氏が仏道に入ってから、ご法事やお葬式など死者と向き合う一層目の機会が多く、生きる道を説くような二層目の機会が少ないことに違和感を抱いていたという。当時の心境を「一層目と二層目が分断されているような感覚だった」と振り返る。

そんな中で転機となったのは、翻訳を担当した『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』の原著との出会いだった。

松本氏:本書によると、死者に思いを向けることは同時に未来の人から私達に向けられる眼差しでもあると。100年後の人たちからすると、私達もやがて祖先になっていくわけですから。そうしたときに「その時代(現在)をどう生きたか」を、100年後の人たちは振り返るわけですよ。

過去や死者に目を向けることは、未来とも繋がっていって、そして現在の生き方を問うものであったんだと。それを知って、私の中でブレイクスルーが起こったんです。

「祖先にずっと関わってきたからこそ、自分が翻訳する意味がある」と決心して、2021年に日本語版『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』を出版に至ったそうだ。

「How can we become better ancestors?」

「どうしたら、私たちはよき祖先になれるか?」

本書の帯には、人類にとって最も重要な問いとして、台湾デジタル担当大臣のオードリー・タン氏の言葉が掲載されている。これは本書を踏まえての言葉ではなく、別件でオードリー・タン氏と対面した際に、もらった問いだったという。

「どうしたら、私たちはよき祖先になれるか?」は日本だけでなく、世界共通の問いだと考えた松本氏。経済や政治、学究などの社会におけるリーダーがあつまる世界経済フォーラム「ダボス会議」に参加した際には、世界中のリーダーたちに「How can we become better ancestors?」と質問したそうだ。

松本氏:まず、インドのカルナータカ州バンガロールに本社があるグローバルコンサルティング、ITサービス企業インフォシス リミテッドの代表Mohit Joshi氏に質問を投げかけてみました。すると「Be good listeners.You should listen to voices of the next generation, not telling your voice(伝えようとすることより、次なる世代の声を聴くことだ。よき聴き役になろう。)」という回答をくれました。

次は、アフリカをはじめとする世界中の女性や少女たちがSTEAM教育(※)を身につけられるよう支援しているiamtheCODE創設者のMariéme Jamme氏に。彼女とは10年来の友人なのですが、セネガル出身で13歳の頃にはパリで娼婦として売られ、救助センターに移されるまでの3年間、地下鉄の駅で暮らした過去があります。厳しい社会を経験した彼女だからこそ「telling the truth(真実を語りましょう)」という言葉をもらいました。きっと、「こういう歴史があった」ということを、後世に伝えていく、そして同じ轍を踏まないようにという意味が込められているのでしょう。

最後に、世界中でインターネットユーザーの権利保護を目的に活動する非営利団体Access Nowのエグゼクティブディレクター兼共同創設者Brett Solomon氏に問いかけてみました。デジタルの世界に未来世代への遺産を残そうということで「Leave good legacies in a digital world for the future generation(未来の世代のために、デジタル社会で良い遺産を残そう)」という回答をもらいましたね。

目に見えないものを語り合うのは難しいですが、死者という「目に見えないコモンズ」は存在していて、日本を超えて世界でも共有できるのは面白いなと思っています。

※STEAM教育…Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学・ものづくり)、Art(芸術・リベラルアーツ)、Mathematics(数学)の5つの単語の頭文字を組み合わせた教育概念。今後のIT社会に向けて順応した競争力のある人材に育てていくための教育方針。

この問いには正解がない。重要なのは「では、あなたはどう答えますか?」ということだそう。筆者も考えを巡らせてみたものの、まだまだ答えらしきもの見つかりそうになかった。それでも、考え続けることが重要な気がした。今はまだ掴めないけど、いつか胸をはって答えられるよう過去に向き合い、未来を考えていこうと思う。

「先祖」から「祖先」へと開かれる

抽象化すれば、先人たちはみな「祖先」だと言える。だが、自らとの関係性や距離感によって、祖先に対する想像力の射程も異なってくるだろう。どのように関係の遠い祖先と向きあえばいいのだろうか。「最初は、繋がりやすい親族や友人でいいと思っている」のだと、松本氏は語り続けた。

松本氏:私が「先祖」ではなく「祖先」という言葉を使うには理由があります。まず、先祖は家族や血縁のニュアンスが強い言葉ですが、祖先は「人類の祖先」というように血縁を超えた繋がりを示すニュアンスがあるからです。

でも、いきなり関係ない人との繋がりを自分ごと化するのは、なかなか難しいですよね。だからこそ先祖から始めたらいいんです。おじいちゃんおばあちゃんが、仏壇に毎朝手を合わせて、思いを向けるところから1日を始めるっていうのは、最も身近な自分ごと化です。目に見えない存在との繋がりを確認するところから1日を始める。死者を手がかりとしたマインドフルプラクティスだと思っていて、なかなかすごいなと思うんですよね。

一方で、松本氏は「日本仏教における反省点があるとしたら、先祖と言いすぎて、血縁主義が強くなってしまったことだ」と言う。

松本氏:大切な人を亡くして、想いを向けることを大事にすることもいいんですが。でも、その想いはもっと広がりうるものだということを、日本仏教は言ってこなかったんですよね。

血縁に関わらず、私たちはいろんなものを受け継いでいます。そして子や孫へと直接的ではなくても、未来の人にいろんなものを受け渡していける。そこをもっと開いていくっていうことが、すごく重要なんだと思います。

「名もなき祖先に思いをはせるきっかけは、親族や友人だけでなくとも、何でもいい」という。例えば、フグを思い浮かべてほしい。ご存知の通り、フグには毒があり、正しい捌き方に辿り着くまで何人も亡くなっただろう。その恩恵があり、私たちは美味しくフグを食べることができている。

「万物への感謝」が年中行事にある日本文化

参加者の1人は、日本の伝統的な生活文化である「しつらい」を子どもたちに教えるため、古民家で季節の手仕事を体験できるイベントを開催したり、小学校では「食を学ぶ、命を学ぶ菜園」を作り命についての学びを提供したりしているという。

その人は、松本氏の言葉を踏まえて「花を生けるというしつらえも、もともとは仏教からきたもので、死者に想いを向ける、お供えするという気持ちですよね」と語った。

参加者:「ありがとう、いつもありがとう」という想いを届けることが、年中行事としてスケジュール化されているのが日本の特徴だと思います。そういう仕組みがあること自体が、ありがたく、目に見えない存在を感じさせる機会になっているなと。

年中行事でなくとも、お花の水をかえたり、お日様が花を活き活きとさせてくれたり。人ではないものと繋がれる仕組みが「しつらえ」や「年中行事」なのかなと思っています。

松本氏:季節ごとに、行事に埋め込まれているのはありますね。例えば、お盆やお彼岸は「亡き方に想いを向ける強化月間」みたいな。

一方で、「現代では、空気や生き物など、人ではないものとの繋がりも感じられにくくなっているからこそ、気候危機も実感をもてないのでは」という懸念を示す参加者もいた。

松本氏:SDGs同様に「地球規模で考えましょう」というと、生活と離れてしまって、ピンとこない人も多いです。自分から始められる・繋がれるという意味では、やはり「先祖」が一番繋がりやすいのではと考えています。

「修養」でウェルビーイングを起こしていく

最後に、松本氏が最近注目している「修養」という言葉について紹介をしてくれた。修養とは、辞書によると徳性をみがき、人格を高めること。要するに、Self- Cultivation。自己治癒力を引き出して、自利と利他が円満になることだそう。

松本氏:私は仏教のバックグラウンドを持つので、修養を「養生」と「修行」の2つに分解しています。

養生とは、自分自身の自己治癒力を高めること。例えば、栄養のあるものを食べて、銭湯に行ったりして、自己治癒力を引き出していく。修行とは、大乗仏教だと他者に働きかける菩薩行のことを指します。なので、人を救う行いをすることだと考えています。

でも、きちんと養生ができていないと、修行もできない。なので、養生と修行のサイクルを回していくことこそが、現代でいう「ウェルビーイング」が立ち上がっていくのかなと。

養生と修行を合わせて修養と呼び、お寺は道場に位置付けられているものなのではと松本氏は言う。修養を研究している京都大学名誉教授の西平直氏との議論によると、「修養はNo Selfに向かっているのでは」と仮説を立てているそうだ。

松本氏:No Selfは自我を超えていくっていう意味もありますが、もう一つ意味があるなら死だと考えています。ブッタは悟りの境地である涅槃(ニルヴァーナ)を2回経験したと言われています。1回目はエゴを克服し、執着から離れた35歳のとき。2回目は、みなに悟らせるために説法をして、亡くなった80歳のとき。

もしかしたら、修養とは死を練習しているイメージがあるのかなと思っています。もちろん急いで死を選んでいくという意味ではなく、死を練り込んでいくような……。死の練習としてサイクルを回すのが、もう一つの修養の側面ではないかなと考えています。

筆者は幼い頃、落ち込むことがあると「ご飯を食べないと元気になれないよ!」とよく母親から言われた。しぶしぶご飯を食べて、温かいお布団で寝たら、あんなに心を支配していた悲しい気持ちが和らぐことが多かった。学校に行くと、友人にも優しくなれた気がする。それは、幼いなりに養生と修行のサイクルを回して、修養をしていたのではないだろうか。

松本氏は「修養とは死を練習している」と表現したが、私は「修養とは死への準備」のように感じた。悲しい気持ちを抱えたままだと死にきれないし、他人に優しくできないと後悔が残る。「今日も私は精一杯生きたし、他人にも優しくなれた」と感じて1日1日を終えていく。それがきっと、最期のときにも感じられるよう、修養を重ねて準備をしていくのだろう。