食と農をめぐる物質的な世界と精神的な世界

初めに、バイオダイナミック農法を長年にわたり実践・研究してきたヘンドリクスさんが、自身の考えを共有する。

バイオダイナミック農法は、1920年代にドイツの思想家ルドルフ・シュタイナーにより提唱された。惑星や月といった宇宙の天体運行と連動し、大地や鉱物、植物や動物とつながり循環する営みとして農を捉え、有機体としての農場と環境要素(作物や家畜、肥料や調剤などを指す)の適正なバランスを重視する。

外部からの資源に頼らず、有機体内で循環している状態を理想とする農法で、自給自足や地域資源循環、循環型農業といった概念とも関わりが深い。

バイオダイナミック農法の研究を通して、ヘンドリクスさんは食や農をめぐる「物質的な世界」だけでなく「精神的な世界」と向き合ってきたのだと話す。

ヘンドリクス:食を農にまつわる私の探究は二つの世界にまたがります。一つは物質的な世界。例えば土や鉱物、トラクターなどです。

もう一つは、精神的な側面も含めた、私たちの食を生み出す様々な要素の世界です。食というのはビタミンやミネラルといった栄養成分以上の何かによって成り立つもの。農業に携わる人間の行動や精神も含めて、食卓に運ばれてくるのです。それは、私たちにどのような影響を与えるのでしょうか?物質的な影響に比べて、精神的な影響について考える機会は多くはないでしょう。

本セッションではルドルフ・シュタイナーが提唱した人智学における四つの領域から、この二つの世界を眺めてみたいと思います。

まずは「鉱物」の領域です。私が左手に持っているのがクリスタルの結晶、右手に持っているのが石灰です。石灰は農業に欠かせないもの。重さも色もあります。そして化学的な物質が含まれている。クリスタルの結晶は中に含まれている物質が透けて見えますが、石灰は濁って何も見えません。

二つの石を足元に置き、1000年くらい時間を早送りしても、同じ状態でここに存在します。その意味で、鉱物は死んでいるようなものとも言えるでしょう。

一方で、私はクリスタルショップで妻と購入した小さな石も持っています。そのお店では、選んだ石を腕輪にしたり、薬として使ったりできる。どの鉱物がどのような病気や症状に効くのかも教えてくれます。先ほど鉱物は死んでいるようなものと言いましたが、私たちの心身に何らかの作用を及ぼすという点では、生きているとも言えます。

鉱物の次は、「植物」の領域を眺めてみましょう。鉱物と同様、重さや色、形があります。人間が酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すと、植物は二酸化炭素を吸って酸素を吐き出し、循環させてくれます。

植物に向かって風が吹けば、風の速度や強さに合わせて葉が揺れます。私が植物に向かって空気を吐き続ければ、植物は二酸化炭素を沢山吸って、より速く育つかもしれません。このように植物は常に環境と影響を与え合う特質があります。

その植物を人間が食べることにどのような意味があるでしょうか。例えばレタスを考えてみましょう。今、多くのレタスはあまりにも工業的に速く育てられ、人間によって収穫される。いわば寿命をまっとうできていない状態です。そうした植物を食べることは、人間にとってどのような意味を持つのでしょう?

私はそれによって人間自身も生命の循環を終えることが難しくなるという仮説を持っています。植物の中では人間の体と同じように消化や循環が起きています。植物は菌類やバクテリアから自らを守る力も持っています。それは化学物質によるものですが、その自己治癒力や自己防御力、エネルギーや活力といったものも、人間は摂取しているのではないかと考えているからです。これは通常の科学的思考では理解しづらいものだと思います。

さて、次に眺めてみたいのが「動物」の領域です。今、家畜をめぐって様々な議論が起きていますから、牛について考えてみましょう。動物が鉱物や植物と大きく異なるのは、意識を持っているということです。植物が意識を持っていないと言いきれるわけではありませんが、動物の意識のほうが私たちにとって想像しやすいのは確かでしょう。

牛は音に反応しますし、周囲で何かが動いていると好奇心を持って目を向けます。さらに牛の群れには知性のランクがあり、ランクの高い牛が来ると、ランクの低い牛は脇に避けると言われます。また、牛はいつ・どこに移動するのか、いつ食事をするのか、自分たちで意思決定している。反応したり感情を抱いたりするだけでなく、思考も働かせているんですね。

牛の像を持つヘンドリクスさん。バイオダイナミック農法に欠かせない調剤は、牛の角や糞を使用して作られる。同農法において、牛は重要な役割を果たしている。

ヘンドリクス:さらに、牛などの動物は共感的な神経機能を持ちます。他の牛に体を擦りつけたり、抱きついたりします。同様に痛みも感じます。牛の乳搾りをする際、いきなり搾ってしまうと、牛は怖がり、あなたは蹴られてしまうでしょう。乳搾りのコツは最初に牛の体に接触し、安心してもらってから搾ることです。

さて、こうした反射は、牛が恐怖を避け、生き延びる上で役立ちます。動物の領域では、恐怖に遭遇すると、まず逃げます。次に戦うか、あるいは凍りついて動けないか。この3種類の反応は原始反射と呼ばれ、人間も備えているものです。私や今日の参加者の皆さんの中にも、牛と同様に、原始的な動物の性質が備わっているわけですね。

作り手や土地の“固有性”を大切にした農

生きているようで死んでいる鉱物の領域、周囲から影響を受けて循環する植物の領域、そして感情や思考を働かせる動物の領域をめぐり、最後にヘンドリクスさんは人間の領域を眺めていく。

ヘンドリクス:最後は私たち人間の領域です。人間は鉱物や植物、動物の持つ様々な特質を備えています。そして個性を持ち、100人いれば100通りです。私が学校で講義をする際、教室に行くと複数の生徒が座っています。けれど集団の中でも、一人ひとり異なる個人として、人間は存在しています。

人間に比べて、牛などの動物は、そこまで個人化していません。人間には「自分」という意識があり、何かが起きると「どうしてうまくいかなかったのか」とか「次はこうしたらもっとよくなるのでは」と思考を働かせる。恐らく牛はそんなことはあまり考えていないと思います。

このように自意識を持つことができるのは人間にとって重要な特質です。人間は怖いと感じながらも「それでもやる」という決断ができる。飛行機が怖くても、車や船だと時間がかかるから、乗ろうと意思決定できる。火が怖くても人の役に立つために消防士になろうとする。自らの意志を働かせ、直感や本能にもとづく反応を乗り越えられるのです。その他にも人間の特質として、道徳や精神性なども挙げられますね。

といったふうに鉱物、植物、動物、人間の領域について話すと「人間は他よりも優れているのですね」と言う人がいます。でも、そうではありません。異なる特質が存在し、人間もその一つであるだけ。領域に優劣はありません。

さて、改めて農と食に話を戻しましょう。バイオダイナミクス農法では、この四つの領域がどのように作物に影響しているのかを捉えます。例えばキャベツを育てるとき、人間の領域における農場や作り手の固有性、個性といったものは、キャベツにも宿ると考えるのです。

今、私の暮らすオランダでは、農業や農地をめぐるルールが多数存在します。これらのルールを遵守したとき、農場は全部似たような見た目、仕組みに収斂されていきます。ですが、私は個性や固有性のある食べ物、その土地固有のものを育ててほしいと願っています。全員が同じルールやアドバイスのもと、同じものを作ることに違和感を抱いているからです。土地にあった固有の植物は何か、農場で飼う家畜からどのようなエネルギーがもたらされるのか。それが人間にどのようなよい影響、あるいはよくない影響を及ぼすのか。一人ひとりの農家がそれぞれ考えることが大切だと思っています。

自然の窒素と、人工的な窒素

最後に、ヘンドリクスさんは農や食における「窒素」について自らの仮説を共有しました。窒素は、植物の三大栄養素の一つであり、1920年代においても既に農業生産における窒素の作用と役割が議論されていました。背景には1900年代初めにハーバー・ボッシュ法が開発され、窒素化学肥料が工業的に合成されるようになったことがあげられます。

ここから展開されるヘンドリクスさんの話の補助線として、先ほど紹介したドイツの思想家シュタイナーが窒素について触れている内容を引用しておきます。

「今日では、窒素が作用しているすべての場において、いうなれば、その働きの中でもっとも末端的な、もっとも表面的な現象だけが観察されているのであって、自然全体との関連において窒素が作用するその実態は、観察されていません。(中略)これができるためには、一つの自然領域を超えた宇宙全体の中にまで視野を広げていき、宇宙の中における窒素の働きを考察しなければなりません」(『農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎』)

ヘンドリクス:シュタイナーの提唱する人智学やバイオダイナミック農法において、窒素は動物の特質を運ぶものであると考えます。多くの鉱物に窒素は含まれていませんし、植物に含まれる窒素は種に集中しています。一方、動物や人間にとって窒素は身体の一部だからです。その窒素は私たちの身体や健康にどのような影響を与えるのでしょうか。

牛を例に考えてみましょう。バイオダイナミック農法では、牛をめぐる窒素は2種類あると捉えます。一つは牛の一部にはならず排泄されて体外に出てくる窒素。もう一つは、牛の体の一部となり、筋肉となって数年間体内に留まり、血液や尿を通して体外に出てくる窒素です。わざわざ排泄せず、利用し続けるほうが効率的なはずなのに、なぜ短期間で外に捨てるのでしょうか。これはあくまで私の現段階での仮説ですが、体外にすぐ排出される窒素は、牛の身体を維持する性質を持っていない窒素なのではないかと考えています。

これとは別に存在するのが肥料に含まれる窒素です。化学物質として工場で生産される窒素を口にすることは、動物や人間の身体にどのような意味を持つのか、私は研究を続けています。それは自然な窒素に備わる特質をもたない窒素をとり続けることであり、それによって四つの世界や環境との調和を図るのが難しくなるのではないかと感じているからです。

自然の窒素を摂る機会を増やすことは、人間と周囲の環境との衝突を減らしてくれるのではないか。そんな問いを持って、私はバイオダイナミック農法を実践・研究し続けています。

日本の八百万の神、八百屋の野菜

続いて、世界中の食に潜むアニミズムや精神的な営みを探る研究プロジェクト「食とアニミズム」の関係を考える玉利康延さんが、地球規模での食の変遷を辿りながら、研究内容を共有する。

冒頭では、玉利さん自身の実感とともに食とアニミズムの捉え方を共有してくれた。

玉利:皆さんは普段、どのように食べ物を手に入れていますか?私はスーパーマーケットで買い物をすることが苦手でした。スーパーマーケットの食材を食べて肉体を維持することはできるけれども、魂を維持するのは難しいなと感じていました。

私は食とアニミズムの関係性について、2020年から情報デザインの手法で研究を続けてきました。過去10年ほどの間に行った、日本国内のフィールドワークで得られた日本の郷土料理の知見や、これまで研究されてきた世界の料理の起源に関する多くの研究者達の著作から道筋を可視化し、文脈を紡ぎ合わせることで、人類はどこから食べ物を得てきたのかを探っていくうちに、アニミズムの存在の重要さを認識したのです。

アニミズムを捉える上で大切にしているのは、神秘主義的な解釈にとらわれず、ロジカルに考えることです。アニミズムは複雑なテーマですから、簡単にまとめて結論を出さないこと。複雑さを全部受け止める姿勢を前提に研究を行っています。

アニミズムは「気配で感じるもの」とも言われます。特にスタジオジブリの宮崎駿さんは、アニミズムを気配で表現することに長けていると評価されています。

私は彼が暮らしている地域の近くに住んでいて、作品を作る上でインスピレーションとなったであろう風景にも遭遇します。例えば、ある日近所を散策したとき、一面に広がる刈り取り直前の小麦畑に風が吹き始めました。その瞬間、私には『となりのトトロ』に出てくるネコバスがまさに映画のシーンと同じく、五月の風の上を走っているように見えたんです。このように目の前の景色に「神様がいる」と感じることも、日本人の典型的なアニミズムの考え方の一つです。

私がアニミズムを感じるときに最も重要視しているのは「美味しいと感じた瞬間」と「美しいと感じた瞬間」です。今日はなかでも気候風土にもとづいた美味しさがどこから来るのかについてお話していきたいと思います。

そもそも日本でアニミズムは八百万(やおよろず)の神。つまり、多くの神様と呼ばれます。

その八百万から、野菜を売る店を指す「八百屋」という言葉が生まれたと言われています。京都の青果問屋だった伊藤若冲が描いた「果蔬涅槃図(かそねはんず)」は、大根が寝そべる姿が描かれており、まさに神様を野菜に例えて認識していたように見えます。

これは200年前に描かれた絵です。その時点で日本には沢山の野菜、神様がいた。ですが、野菜の起源を探っていくと、日本列島に縄文時代には46種類ほどしか野菜がなかったようです。山菜・野草類、芋、木の実、キノコなど、大きく分けて4分類、約46種。それ以外の“神様”は、弥生時代〜近現代にかけて世界のどこかから伝わってきたものになります。

メロンや小麦、乳製品。日本の外からきた“神様”を辿る

ここから玉利さんは様々な食材を挙げながら、日本の外からやってきた“神様”の旅路を紹介する。時間的・空間的なつながりから何が見出せるだろうか。

玉利:下の図に、野菜の起源をプロットしています。中華料理に使われる野菜に中国原産のものが多く、インド原産の野菜はカレーに使われているものが多いことが解ります。起源が少ないエリアもありヨーロッパは地中海を除いて、実はキャベツくらいしか原産の野菜がありません。日本も同じような状況です。

図の真ん中にシルクロードがあります。ほぼ砂漠地帯で、野菜が作れないイメージがあると思いますが、事実は全く逆。砂漠だったからこそ、野菜を容易に育てられました。なぜなら、雨が多く降り、雑草がたくさん育つ環境だと、目的の野菜以外のものが育ってしまうので、かえって栽培が大変だからです。そのため、砂漠地帯で農耕が誕生した歴史があります。

玉利:特に興味深いのが、メロン。メロンの起源は、インドのインダス川の流域だと言われています。紀元前2300年頃、西と東に分かれて伝わっていきました。西に伝わったメロンは、最終的にフランスに伝播し、甘さを増し、フルーツとして進化します。一方で東、つまり日本に伝わったメロンは野菜として進化を遂げました。

そして二つの真ん中に位置するウズベキスタンのサマルカンド。シルクロードでここのメロンが一番美味しかったと言われています。こうした現象はメロンに限りません。世界各地に広まった街道の真ん中の場所に一番美味しい種が沢山残されるからです。

次に紹介するのが農耕民族にとって重要な小麦です。小麦はメソポタミアから世界各地に広がっていきました。その過程でアジアでは餃子や麺になり、日本ではうどんやそうめんになっていきます。

玉利:上の図の中央付近が中国の黄土高原。ここで小麦が麺に生まれ変わります。麺が誕生するまでは、お粥にしたり、小麦をこねたものに餡を入れて料理したりしていました。これが後に中国では餃子と呼ばれます。麺はかなり手間がかかる加工法ですが、小麦があまり育たない黄土高原に住む人々が、美味しくない雑穀を美味しく食べるために生み出した料理法が麺だと言われています。

日本のうどんは、仏教僧がウイグルに修行に行った際、現地で食べられていたラグマン(Laghman)を持ち帰ったものだと言われています。日本には仏教を通じて伝わってくる食べ物が沢山あります。

続いて騎馬民族の食、彼らの主食は肉と乳製品です。騎馬民族は基本的に野菜を食べません。野菜の栽培は住む場所を限定し、移動を難しくするからです。夏はチーズやヨーグルトといった乳製品、冬は屠殺した家畜の肉を食べていました。

玉利:まず最初に草原地帯でチーズが誕生します。起源は不明。それほど古い時代から人間はチーズを食べてきました。民族大移動後にヨーロッパに伝わるにつれて、柔らかく食べやすいソフトチーズに変化した一方、遊牧民は硬いままのハードチーズを食べ続けました。

続いて乳酸発酵。これはアラビア半島の砂漠の遊牧民「ベドウィン族」が発見しました。仔羊の胃袋に乳を詰めておくと、移動する際に揺れて発酵し、それが固まったものを取り出して食べてみたら美味しかったと言われ、各地を移動しながら伝えていったそうです。

最後がインド料理で重要な油のギー(Ghee)。歴史上、遊牧騎馬民族は何度も北インドへ侵攻しました。遊牧騎馬民族が占領して北インドに住むようになると同時に、乳製品を食べる文化が定着します。

北インド料理は乳製品ベースの料理が多いですが、そこにはとても合理的な理由もあります。唐辛子を食べた時に辛さを和らげてくれるのは、乳製品だけなんです。私自身もインド料理屋に行くと必ず「飲むヨーグルト」と呼ばれるラッシーを頼みます。

総括すると、食べ物の起源よりも、どういう道を辿ってきたかを知るほうが大事なのでないかと、私は考えています。つい“ルーツ”を調べたくなりますが“ルーツ”よりも“ルート”が大事だと思っています。どのようなルートを辿ったのか、私たちの祖先は生きていくためにどのような食べる工夫をしたのか。いかにして今の調理法に至ったのかを知ることが大切だなと思っています。

魂を揺さぶられる、気候風土に根づく食

ここからトピックは、日本の“外”からやってきた食の話から、次は“内”にある食の話へと移ります。

冒頭で語られた食と魂の関係、気候風土にもとづいた美味しさ、食を通じてアニミズムを感じる瞬間の核心に迫っていきます。

玉利:次は日本の内側の話です。私は日本各地で魂を揺さぶられる経験をしてきましたが、それは必ず美味しい郷土料理を食べた瞬間でした。神秘主義的には「そこに多くの神様が宿っているからだ」と言えるかもしれませんが、そこに気候風土にもとづいた合理的な理由もあります。

例えば日本食の基本である「出汁」。出汁には「鰹出汁」と「昆布出汁」という二つの基本の取り方があり、二つをミックスしてできる「合わせ出汁」が和食の味付けのベースです。

この出汁を知るためには海流を理解する必要があります。まずは鰹です。下の図は、日本の南北を反転させたものです。太平洋を流れているオレンジ色のラインが黒潮。フィリピン付近から流れてくる暖かい海流です。この海流に乗って泳いでくる鰹が、画像のオレンジ色のラインに近いほど、大量に獲ることができる。諸説ありますが、日本では少なくとも2000年以上前から食べられていた。太平洋沿岸の各地を旅していても昔から鰹を食べていたのだと感じます。

玉利:もう一つは昆布。昆布は日本中どこでも取れるわけではなく、寒い地域でしか育ちません。水色のラインが北から流れてくる冷たい海流、親潮です。この親潮に近い北東北と北海道でしか昆布は育ちません。

ですが、昆布が採れない関西や瀬戸内海の料理にも昆布は使われてきました。これはなぜかというと、江戸時代中期に北前船と呼ばれる航路(下図の茶色のライン)ができ、昆布が各地に運ばれるようになったからです。

玉利:海流の次は気候です。冬にはシベリアの方から冷たい空気が流れてきて、気圧が徐々に南下することで、日本海の海水温が急激に低下します。

すると、秋田県の男鹿半島エリアに現れてくるのが、ハタハタと呼ばれる魚。この時期、下の図の青色のエリア(日本海沿岸)では雷がよく鳴ります。雷が鳴るようになると、ハタハタが深海から海面へ産卵のために上がってきたことから、ハタハタは漢字で魚へんに神で「鰰」と書くようになりました。

昔の人たちにとっては、雷神や風神といった神様たちが日本海の上にいるように見えたのではないかと私は捉えています。あらためて気候と食べ物は直結しているのだと感じます。

玉利:最後に重要なのは季節を知ること。民俗学者の柳田國男いわく、日本には「山の神信仰」という、神様は今どこにいるのかを認識する考え方があります。神様は冬は山で眠っていて、暖かくなるにつれて里に降りてくる。その際、山と里の中間地点にある山桜が咲く。そうすると「桜が咲くと神様が降りてきたのだ」と捉える。里に降りてきた神様が、各家にある稲に宿り、その稲を田植えすることで、神様が稲を育ててくれると感謝する。

日本では11月23日が収穫祭。収穫が終わると神様は山の上に帰っていきます。すると今度は、山が紅葉に染まっていく。葉っぱが落ち、風景がセピア色になると、神様は山の上で眠ってエネルギーを増やしている(増やす=ふゆ)と考えました。

玉利:ここまでの話を踏まえて、美味しい郷土料理を食べると魂が揺さぶられると感じるのは、以下の5つの理由があるからだと考えています。

・旬の食材であるから
・大量生産で作られていないから
・流通に乗らない食材だから
・その土地の気候風土に合った食材であるから
・保存食として作られたものだから

人類の歴史における変化が、食に大きな影響を及ぼしています。自然のサイクルから離れ、都市に住むようになった結果、旬や季節を感じづらくなりました。第二次世界大戦後に農業において農薬や化学肥料が用いられ、1970年代に大量生産・大量消費の仕組みが構築されました。土地の特性を無視する食事が増え、輸入自由化によって国産の食べ物を食べる機会が減りました。冷蔵・冷凍技術の発達とともに、保存食を食べる必然的理由がなくなりました。

こうした変化の結果が、私のスーパーマーケットでの体験ともつながります。つまり、私はスーパーマーケットの食材で健康な肉体を維持できるようにはなりましたが、魂を維持することは難しくなっているのではないか。そんな問いについて考えています。

食をめぐる分断、つながり直すための手がかり

精神的な要素も含む、私たちの食や農を成り立たせる要素や、その関わりに触れたヘンドリクスさん。野菜という“神”の辿るルートや気候風土に根ざし魂を揺さぶる食について語った玉利さん。

発表後のトークセッションでは、両者が共通して触れた魂や精神といったトピックを糸口に​、食や農とアニミズムのつながりを探る。モデレーターは、Ecological Memesの小林泰紘さんとヒーレン・オーストさんが務めた。

小林:先ほど玉利さんがお話しされていた、郷土料理を食べて「魂が揺さぶられる経験」というのがとても大切なことだと思っています。現代の食生活が、そうした食のアニミズム的側面から切り離されてしまいやすいなかで、どうすれば私たちは郷土料理を食べて、魂を揺さぶられる感覚を抱くことができるのでしょうか。玉利さんの考えを伺ってみたいです。

玉利:魂を揺さぶられるという感覚は、私の先祖、特に祖父母と結びついていると思うんです。

私の祖母は二人とも北国出身でした。もう亡くなっていますが、かつて彼女らの作ってくれた料理を食べる瞬間、魂が揺さぶられる感覚を強く抱きます。中でもタラの料理。タラは日本海側の北側に生息している魚で、自分のルーツにつながっている感覚を持っています。

小林:たしかに自分自身の先祖、アンセスターへの意識は大事な手がかりになりそうですね。言い換えれば、自分の身体の奥底に実はすでにある感覚や記憶にひらかれていく、ということもいえそうです。続いてヘンドリクスさんは人智学における四つの領域の中でも鉱物の話をしてくださいました。本フォーラムのセッション「人類学とアートから眺めるアニミズム〜西洋と東洋、科学と宗教〜」でも、人類学者の奥野克巳さんが、以下のようなお話を共有してくださいました。

インゴルドは著書のなかで、1930年代にアメリカの人類学者アルフレッド・アーヴィング・ハロウェルとカナダの先住民オジボワの長老ベネンズとの、石をめぐる対話を取り上げています。

オジブワ語の「石」という言葉は、文法的に「生ある存在」に属しているそうです。その話を踏まえて、ハロウェルは「私たちの周りにあるすべての石は生きているのでしょうか?」とベネンズに尋ねたのです。すると、ベネンズは熟考した後「いや、生きている石もある」と答えたのです。

先ほどヘンドリクスさんは、同じ窒素でも自然界のものと工業的につくられたものでは性質が違うといった考え方を共有してくださいました。バイオダイナミック農法では物質の生死や魂を、どう捉えられているのでしょうか? 

ヘンドリクス:現代科学では窒素は窒素です。それ以上でも、それ以下でもない。しかし、私の考えでは、窒素は何かに反応し、動きの質をつくるという点で、動物の特質を持っています。人間も群れて生活をしますよね。他者と相互関係を持ったり、逆に反応させないように距離を保ったり。これは窒素の質によるものです。実際、バイオダイナミック農法では命の質は窒素の質とも言われます。

魂について言うと、一般的に、鉱物は生きていないと認識されています。でも、鉱物にも生きていると言える点があると思います。ここで言う「生きる」とは「影響を与えることができる」という意味です。食べることは身体を養うだけではなく、食材が持つ様々な質を自分の中に養うこと。そうした影響を与えるものは、命あるいは魂がある。つまり、生きていると考えます。

この命が玉利さんが問いかけてくれた、食べ物は一体どこからやってきたのかという問いにつながると思います。私の手元には今コーヒーがあり、中のミルクは知り合いの農家から、コーヒーは遠く離れたところから届きました。農家と直接的なつながりはありませんが、今では写真で栽培の様子を見れますし、記事でどんな想いで取り組んでいるのかを知ることができます。何らかのつながりを築けるといいですよね。

ヒーレン:お二人の話を聞き、私たちの中に分断が発生していると気づくことが必要だと思いました。とりわけ食をはじめとするあらゆるものが、みえない誰かの手によって生産されていて、つながりが途絶えている。だから敬意を払えていない。お二人の話からは、そうした相互のつながりの大切さが伝わり、嬉しい気持ちになると同時に、それらを取り戻していかなければいけないなとも感じました。

小林:玉利さんのお話にも「ルーツよりもルート」というお話がありましたね。私たちが何かを食べるとき、牛や植物、菌など様々な存在、気候風土や文化も含めた大地の総体を食らっている。栄養学的な還元だけでは捉えきれない、みえない無数のつながりの連環と流れの中で私たちが生きている。そうしたものが食に込められていると気づいていくことで、ヒーレンさんが触れてた分断を乗り越えていく上で大事な手がかりなるのではと思います。

AWAI Global Forum 2022のセッションアーカイブ映像は、Ecological Memesのオンラインショップで販売されています。本記事でご紹介したセッションも購入できますのでぜひチェックしてみてください。
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