“夢の中の君はいつも同じ顔をしている。私と同じ形をした手を象る。声にならない声を聞くために耳を傾けていると、底から叫ぶような音がして目が醒めた。終わらない夢だと言われた方がまだ良いだろう。残念ながら夢ではなく、生まれる前からずっと続いている、ただの片割れの話なのだ。”
– 淡の間

日記とは一般に「内省を促す」ものと言われる。自身について、自身によって記録する。そしてその記録を後日(もしくはその瞬間に)受け止めることで、自らの中で内省が促される。多少なりとも日記を書いたことがある人なら当たり前のようにわかることだろう。まるで他愛もない話である。

「内省」は英語で「reflection(=反射)」である。内省とは自身を反射させることなのだ。ここで重要なのは、反射は必ずしも正確ではないということだ。自らがそのまま反射されることなどまずない。反射は時に対象を増幅させ、時に減衰させ、また、歪み、ねじれなどを生み出す。まぶしくも見えることもあり、醜く見えることもある。自らの内部を外化させ、反射させることで、自らの内部を自らの外側から受け止める。それが内省なのだろう。

そもそも、日記として書かれた文字とは一体何なのだろうか。元々体内にあったものという点において、それは臓器のようなものとも言えるのかもしれない。思考の露出だと考えると、臓器の中でも特に脳に近い、脳漿のようなものだろうか。自身の脳漿を自身の手によって外部に露出させるのだとしたら、日記を書くとは極めてグロテスクな行為である。

グロテスクなものなのだから、見るに堪えないことは間違いないだろう。自分が書いた過去の日記を見て、恥ずかしくなったり、情けなくなったり、悲しくなったり、見たくもない気持ちになったり、そういった経験は誰にでもあるのではないだろうか。「過去の亡霊」という言葉があるように、日記は自分自身の手によって生み出されたグロテスクな亡霊なのかもしれない。だから、見たくないのだ。

“不気味なものとは、慣れ親しんだもの、馴染みのものであり、それが抑圧された後に回帰してきたもののことである。”
– 『不気味なもの』ジークムント・フロイト

オーストラリアの心理学者で精神科医のジークムント・フロイトは、1919年に『不気味なもの』という文章を発表した。フロイトはこの文章の中で「不気味」という感情に注目し、不安や恐怖を生み出す存在の分析を試みた。日記というこのグロテスクな亡霊は、まさに「不気味なもの」である。
フロイトが指摘したように、不気味を表すドイツ語の「unheimlich(不気味な)」は「heimlich(馴染みの、我が家の)」の反対語である。このように、「unheimlich(un-heimlich)」の中には「heimlich」が含まれている。不気味なものとは、馴染みのものでもあるのだ。
これはまさに日記そのものである。自身によって書かれた自分自身のことなのだから、馴染み深いことは間違いない。だがそれは書いたその瞬間に亡霊化する。そして、一度書かれれば、そこに存在し続ける。グロテスクな亡霊=不気味なものとして。

“反復でありかつ初回でもあること。これこそが、もしかすると幽霊の問いとしての出来事の問いなのかもしれない。幽霊とは何であるのか。亡霊の現実性あるいは現前、すなわち仮像におとらず非現実的で、潜在的で、頼りのないままにとどまるものの現実性あるいは現前性とは何か。そこ、すなわち物自体とその仮像のあいだの対立関係は妥当でありつづけるのか。反復かつ初回は、同時に反復かつ最終回でもある。というのも、いかなる初回も、その初回という特異性ゆえに、最終回でもあるからだ。毎回が、まさしく出来事そのものなのであり、初回なるものは、最終回でもある。まったく別の回なのだ。歴史の終焉のために演出された回なのだ。”
– 『マルクスの亡霊たち』ジャック・デリダ

フランスの哲学者ジャック・デリダは、著書『マルクスの亡霊たち』の中で「幽霊」というメタファーを多用した。現実には存在しないにもかかわらず、自分につきまとい、固執し、結果的に現在の自分に大きな影響を与えるものとして。冒頭からずっと、日記として書かれたものを「亡霊」と表現してきたが、これはまさにデリダの「幽霊」と一致する。日記として残された脳漿(グロテスクな亡霊/幽霊)は、そこにある限りずっと自分につきまとい続ける。

“結局のところ、亡霊とは未来なのであり、つねに来たるべきものであり、来るかもしれぬものあるいは再 – 来するかもしれぬものとしてしかみずから現前させることはない”
– 『マルクスの亡霊たち』ジャック・デリダ

日記を書くとは、自分の手によって亡霊を作っていくことにほかならない。吐き出された脳漿は、亡霊となり、日記という物質によって受肉する。そしてその亡霊は、未来の自分によってのみ出会うことが可能になる。過去の亡霊は常に未来からやってくる。それは自分自身にしか見ることができない(=私には見える)という点において、まさしく亡霊である。
見たくもないにもかかわらず目を背けるわけにもいかず、親しみがあるかと思ったら不気味でもあり、過去であると同時に未来であり、存在していないのに存在している。脳漿を吐き出し、亡霊を受肉させ、不気味な存在/不在として浮かび上がらせる。それが日記の役割であり、日記によって促される(あるいは促されてしまう)内省(reflect=反射)なのだ。

“幽霊はけっして死なない”
– 『マルクスの亡霊たち』ジャック・デリダ

だから人はその日記を軽々しく扱ってはならない。もしネガティブな方向に取り憑かれているのなら、悪魔祓いをしなくてはならない。
多くの人は、見たくないからと、その日記を乱暴に処分する。乱暴に処分された日記はさらに亡霊化する。跡形もなく消え去るが、その痕跡はけっして失われない。悪魔祓いをせずに乱暴に処分したダイアリーは、傷跡となって自身の心に残り続ける。なぜなら、乱暴に扱ったその亡霊は、その人自身であるからだ。亡霊は供養し、成仏させなければならない。

もちろんこれは日記の否定を意味しない。人は不気味なもの——あるいは超越的な存在(フランスの哲学者ジャック・ラカンの言葉で言えば「大文字の他者」、社会学者大澤真幸の言葉で言えば「第三の審級」であり、それらを参照することでこの議論はさらに深めることができる。だが、今回深くは言及しない。次の機会——それがいつになるかはわからないが——に譲ることにしよう。)——に監視されることでようやく自らを律することが可能になる。日記を書くという行為は、自らの手によって自らを亡霊化(超越化)し、その亡霊から過去現在未来問わず監視されることによって自律性を獲得する、自らの人生を自らで生きようとするための方法なのだ。

最後になったが、この文章を書くきっかけになった占星術師である「淡の間」。「淡(あわい)」であり「間(あわい)」であり、「淡(あわい)」の「間(あわい)」である。(さらにいえば、「淡」と「間」のあいだの「の」が位置する場所もまた「あわい」である。)過去でありながら未来でもあり、存在していないにもかかわらず存在している。あわいでしかない存在——あるいは不在。まさに亡霊の名前である。


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