変わらない人間は、どう変わっていけるのか
山本:今日は、「inquire」が現代の社会において何を成すかについて、長期的な視野に立って話してみたいと思っています。
数千年、数万年単位で何に取り組みたいと考えているのか、ジュンヤくんの考えを聞いてみたいな、と。
モリ:そのテーマについて考える前提として、僕は人間って数千年単位では、そこまで根本的には変わらないと考えているんです。
もちろん、居住環境の改善や都市の発達、テクノロジーの発展など、色々な変化は起きているし、今後も起き続けると思います。ただ、自分とどう向き合うのか、人とどう対話するのか、いかに社会を形作っていくのかなどを、現代を生きる僕たちが考えようとするとき。参照する思想や哲学は、文字が生まれたとされる紀元前3000年頃以降、古代の中国やギリシャで生まれたものだったりする。環境やテクノロジーの更新に比べ、人間の「OS」のようなものは進歩していないなと感じます。
だから変わらないで良い、という話ではなくて。簡単には変わらない前提で、どのように人間がより良い存在になり得るのかを考え、取り組み続けたいと思っています。どうすれば誰かが上から干渉せずとも、自ら良い選択肢を選べるようになるのか、そのためのアーキテクチャや仕組みをどう生み出せるのか。社会や地球環境との向き合い方をどう変えていくのかなど、考えるべき問いはいくつも浮かびます。
山本:「人間がそんなに変わっていない」という感覚は僕もありますね。哲学者のテオプラストスは『人さまざま』という本のなかで、古代ギリシャ時代の民衆を描写しています。それを読んでみると、現代にもいるような人ばかりなんですよね。
例えば「みんなでご飯を食べるときに、誰が何を食べたとか、何杯飲んだのかを数えているケチなやつがいる」とか書いてあって、何も変わっていないな、と。
なので、人間のOSの進化にどう貢献するのか、もしくはOSが変わらない前提でどう社会のシステムをつくるのか、この二つが大事なのかなと思いますね。
モリ:人間のOSをどう進化させていくかは、数万年単位で捉える必要のあるテーマだと考えています。『Whole Earth Catalog』の創刊者スチュアート・ブランドは、ロング・ナウ協会を立ち上げて、1万年にわたって時を刻む「時計」をつくろうというプロジェクトをはじめました。1万年先の未来を考えようという取り組みですが、過去を振り返ると1万年前というと日本では縄文時代が始まったくらい。さすがにその頃に比べると進歩している感じがあります。
山本:もうすこし遡って10万年前だとネアンデルタール人が生きていたくらいの時代ですかね。さすがに人間も何かしら変わってきたなという感じがしますよね。もちろん、考え方によってはそれほど変わっていないとも言えますが。
モリ:ですよね。僕はメディアの仕事をする前、学生時代に環境問題にまつわるNPO活動に携わっていて、出会うアクティビストの中には「地球のために人間なんていなくてもいい」というラディカルな結論にいたる方もいました。そう言いたくなる気持ちも理解できなくはない。ただ、僕は人間として生まれてしまった以上、どう変わっていけるのかを考え、行動し続けるのが重要なのではないかと思っているんです。
なので、「inquire」を通して、数万年の尺度で人間がどう変容していけるのかを考え続けたい。もちろん目の前の事業でちゃんと価値や成果を出すことも大事です。難しいことですが、両方のバランスを図りたい。会社の理念として「問いの探究」と「変容の触媒」を掲げるのも、それが人間のOSを進歩させるために欠かせない営み、僕たちが果たすべき役割であり、時間的な耐久性も高い言葉だと考えたからでした。
山本:どう足掻いても僕らは人間だから、人間中心に考えることしかできないんですよね。「人間がいなくなったら地球が元に戻るだけ」とか、それはそうだよねと思うのですが、結論が極端すぎる。そう考えてしまうと、何もかも意味がなくなってしまう。
行き過ぎると、『幽遊白書』の戸愚呂弟が妖怪になったみたいに、あるいは仙水が魔族に憧れたみたいに、極端な方向にふれてしまう。
モリ:純粋で真面目な人ほど。
山本:そうなんですよ。まさに幽助が仙水について「真面目な奴は極端から極端に走るから始末が悪い」といった意味のセリフを言っていましたね。
リーダーのトランジションを促す意義
山本:ただ、数万年先について考える、イメージするのは簡単ではないですよね。その想像力をどう育んでいくのかは、重要な課題だと思います。
モリ:そうですよね。そもそも金銭的にも時間的にも余裕がない状況にある人は多い。1万年先の話をしましょうと言われても「いや、それよりも来月の生活を考えないといけないんで」と思う方もいるでしょう。
余裕を作るには、生活の糧を自ら獲得していく、いわば自分を経営していく必要があると思っています。幸い経営にまつわる知識や技能は先人たちが残してくれていますし、今も生まれていますから。それらを個人にとっても再現性のあるマインドセット、スキルセットとして共有し、余裕を作り出す。その余裕を使って、人々の想像力の射程を広げる。この両方に取り組んでいきたいですね。
山本:両方が大事ですよね。
本来、テクノロジーが人間の代わりに働いてくれて、余裕が生まれる予定だったと思うんです。でも、今はテクノロジーが生み出した余裕を別の仕事を埋めたりして、余裕ができても想像力を働かせられていない気がする。「何をして余裕を埋めるのか」という知恵がつかないと、余裕が生まれても、結局無駄に消費して終わってしまうかもなと思いました。
とにかく今の社会はあまり余裕のない、窮屈な社会になっていると感じます。そこに対して「inquire」がどう向き合うのかが、問われますね。
モリ:先ほど話したような数千年、数万年単位の話とは別に「で、今どうするのか?」という問いやそれに対するアクションを考えていく必要があるし、色々な形があり得ると思っています。
今、テコが効くのではと仮説を立てているのが、リーダーのトランジションを促していくこと。いわゆる大企業だけではなく、中小企業や個人事業主の意識や行動が変わることは非常に大事だなと思います。日本の全企業数のうち99.7%が中小企業ですから。
例えば、年商数億円くらいの中小企業で経営者のOSが変わり、事業の作り方や組織づくりが変われば、地域で働く人たちやサービスを受ける人たちにも、その変化は波及していく可能性があるのではと。
山本:少し前にイーロン・マスクが話題になっていたように、経営者やビジネスパーソンが世の中に与える影響はとても大きいですよね。ビジネスパーソンがどのような知恵や正義を持っているのかが社会にとって極めて重要になっている。
少しずつ良くなっていると思うのは、デザインの文脈でも「ジャスティス」といった言葉が出てくるようになったこと。東浩紀さんの対談集『新対話篇』のなかで、哲学者の國分功一郎さんは、世の中がコレクトネス(正当性)で溢れていて、ジャスティス(正義)がない、といった趣旨のことをおっしゃっていたんですよね。その場その場の正当性を判断するばかりで、いつか実現される正義を信じることができずにいるのではないかと。
「ジャスティス」という言葉の解釈は色々あるとは思うのですが、資本主義のルールや短期的な利益を超えたところにある正義、ソーシャルグッドと言われるものに近い概念が、ビジネスにも必要だというのは間違いないと思う。だから、デザイン界隈でそうした言葉が使われ始めているのは、悪いことではないと思いますね。
そういう意味では、インクワが問いや知識を提供して、経営者や活動家の「世界って面白いな」という好奇心を刺激し、ジャスティスについて考えるきっかけが生まれたらいいのかなと思いました。
モリ:「ジャスティス」について考えるというとき、その西洋圏で生まれた言葉を、日本語圏の言葉でどう表現するかが難しいところですよね。「正義」と一言で言ってしまうと、少し強いニュアンスになってしまう。
要は、短期的な自分の利益だけでなく、長期的に、共同体のために成すべきことがあるんじゃないかという感覚、担うべき役割、果たすべき責任のようなものが「ジャスティス」なのではないかと、僕は捉えています。そこに向き合うと同時に、個人のアイデンティティやオーセンティシティが体現されていくといい。その辺りはバランスを模索していきたいですね。
逆張りと捉え直し、止揚すること
山本:個人の自由と集団としてやるべきこと、人権の尊重とお金を稼ぐこと、どれか一つに偏りすぎず、行き来し続けることが大事な気がしますね。
それで思い出したのが、新型コロナウィルスが蔓延し始めたとき、ジョルジョ・アガンベンという哲学者の書いた『Chiarimenti(説明)』という文章です。彼は、コロナウィルスが原因で亡くなった方は葬儀すら執り行われる権利がなく、その事実に対して教会までも沈黙している。そのような、生き延び以外の価値がない社会とは一体何なのかと、疑問を投げかけたんです。
当時は「感染防止だけが正義」のような空気がありましたから、多くの人は「何を言っているんだ、アガンベン」と言うわけです。もちろん、死なないほうがいいし、コロナにかからないほうがいいですよ。でも、今まで亡くなった人に対して敬意を払って、お葬式をし、埋葬してという文化が成り立っていたのに、いきなり軽視しすぎではないのかという問いかけも大事ではあると思うわけです。ぼくたちはコロナで死なないために生きているわけではないはずです。なのに、脊髄反射で拒否し、真面目に受け止めない人が多かったのは、少し悲しく感じました。
世の中の流れに逆張りするようなことを言うと、どうしても「こいつは何言ってるんだ」で片付けられてしまいやすい。でも、逆張りにも大きなヒントが隠れている場合もある。世の中の動きに「ちょっと待てよ」といちいち問いを投げかける。インクワの持つべき態度もこれかなと思っています。もちろん逆張りがすべて正しいわけでもないし、そればかりしていたら問題ですが。
モリ:人間にとっては、疑わずに邁進したほうが楽ですもんね。でも、その結果として、本来は両立できる可能性を閉じてしまうこともある。
例えば「お金を稼がないとダメ」という意見と「お金がすべてではない」という意見、どちらかが答えかのように議論されているのを、たまに見かけます。ですが、本当にそうなのか。それを問うことが重要だと思うし、僕は個人的に両立できるし、させたいと思っている。
お金の話以外のあらゆる事象に対しても、逆張りをして、二項対立に橋を架けていくこと。本来持つべき長期的な視点を削ることなく、今考えなくてはいけないことに向き合っていきたいし、社会にも促していけたらいいですよね。
山本:「これだけをやる」と決めて取り組むことが美しいと語られがちですが、内田樹さんが『ためらいの倫理学』で語っていたように、「いや自分これでいいんだろうか」と躊躇うことが大切だと思います。
『ワンピース』のマリンフォード頂上戦争でも、戦い自体が目的になった結果、大ボスの白ひげが死んでも、部下たちは戦争を止められなかった。途中でシャンクスがやって来て、ようやく止まったわけですよね。これは半分冗談ですが、インクワがシャンクスみたいな立場になればいいのかもしれない。戦っている人たちの間に立って、ちょっと待てよと(笑)
モリ:(笑)
歩いて、立ち止まって、観察を楽しもう
モリ:躊躇う話に関連して、ちょうど週末に『無為の技法』を読んでいたんですよ。とにかく素早く、沢山行動することが是とされやすい社会において「本当にそうなのか?」を問いかける本です。「する」に寄りすぎないことや何も決まっていない状態と向き合う力、ネガティブケイパビリティの必要性などが書かれています。
「する」に取り憑かれていると、複数の視点や意見を十分に吟味せず、現時点で判断できる選択肢に飛びつきやすいと思うんです。なので「何もしない」をする時間をどう生み出すのか、何もしないための技法をどう身につけるのかは、大切になってくると思います。特に組織のリーダーたちがそうした時間や技能を身につけるとともに、メンバーにどういう働きかけをするといいのかは、自分のテーマとして持っています。
山本:経営者向けに、森のなかで内省や対話を行うプログラムを提供する『森のリトリート』の山田博さんは、訪れた人に「色んなことをゆっくりやってください」と伝えるらしいんですよ。呼吸や話し方などをゆっくりにしてください、と。そうすると、鳥が鳴いているなとか、足元に花が咲いているなとか、自分だけの感覚が見えてくる。
モリ:「しない」ことや「ただそこにある」こと。「急ぐ」ことや「ゆっくりする」ことなど。モードや態度の揺れ動きをどう歓迎し、作り出していくのかは、「inquire」で探究しながら、伝えていけるといいなと思っています。
恐らくそういった所作の話は、合気道や武道、民芸など、異なる分野で知の蓄積があると思うので。それを仕事のなかでどう実践するのか。
山本:「立ち止まり、問うことの楽しみ」も広めていけるといいですよね。「本当にこれでいいのか」を問うことは自己否定ではなく、純粋に楽しい営みだと思うんです。
僕は『バガボンド』の武蔵の一本道をまっすぐ歩く生き方もかっこいいとは思っているんです。一方で、本位田又八のお母さんは「迷いに迷って回り道をした分だけ、道は広がっている」と語りかける。本当にその通りで。一本の道を邁進するのは美しいかもしれないけど、足元にある草花を見逃すかもしれない。道草を食う楽しみは、きっと足を止めて問いを立てないと見えてこないはず。
伝統文化や歴史、哲学、物語、漫画、映画、ビデオゲームでも何でもいい。ちょっと立ち止まって考えてもらうと、めちゃくちゃ面白いものが世の中には無数にある。「inquire」で知の共有をすることで、より多くの方に気づいて、体感してもらえたらいいなと思いますね。
モリ:個人的に興味深いと思っているのが、ベンヤミンの唱えた「フラヌール(遊歩者)」という概念です。なかでも、慶應義塾大学教授の近森高明さんは、遊歩者を街路の「観察者」としてだけではなく、「陶酔者」としても捉えようとされていました。事物を外から観察する側面だけでなく、事物から喚起されるイメージに陶酔し、連想を広げていく側面もあるのではないか、と。詳しくは今後もっと理解を深めていきたいと思っているのですが、観察者でもあり陶酔者でもある状態というのは、自分自身が日常的にやっている、やり続けたいことと近いと感じたんです。
色々な業界や領域を観察するだけでなく、フラフラと自分自身も溶け込み、その営み自体を楽しみながら「今の社会でこういうことが起きているんだな」と掴んでくる。さらに言えば、フラヌールとしての日常から生まれた、良い意味で雑多なつながりのなかで、市川力さんと井庭崇さんが 『ジェネレーター 学びと活動の生成』で提唱されていたような、主体的に創造のプロセスに参加する「ジェネレーター」としての価値発揮を図る。
そうした実践を通して、目の前の社会において価値を発揮するだけでなく、冒頭で話したような何千年、何万年単位での人間の変容にも寄与できないか、活動しながら考えていたいです。