地方で暮らし始めて一年と少しが経ち、地方ならではの様々な出来事を目にした。外部の人間が、地方に住む人々の感情を考慮せずにプロジェクトを進め、住民の反感を買ってしまうようなプロジェクトもあった。歴史や文化というものは、一度壊れてしまったらそう簡単には元には戻らない。ぼくはとても残念な気持ちになったが、こういうことはこれからもきっとあるのだと思う。(もちろん、単に外部の人間を否定しているわけではない。発注側の責任もおおいにある。)

だから、福島県を中心に活動する社会学者の開沼博さんが、そういった外部の人からの行為を「ありがた迷惑」と表現した気持ちも、正直わからなくない。文化というものは作るときには時間がかかるくせに、壊れるときは一瞬である。たとえば、旧民主党が事実上崩壊したのも一瞬の出来事だった。

時間をかけて大切に守ってきた文化がヨソモノによって一瞬で壊されるくらいなら、ヨソモノなどいらない。そう言いたくなるのもわかる。

では、そういった「ヨソモノ」はとにかく町に配慮しなければいけないのか、とにかく住民の感情を尊重しなければいけないのか、それができなければ何もしてはいけないのか、というと、そんなことはないとぼくは思う。

ぼくの暮らす地域の近くに、少し珍しいカボチャを育てている農家がある。(近所のおばあちゃんはそれが大好物らしい。)見たこともないカボチャだったので、生産者の方に少し話を聞くと、元々は海外の品種で、先祖が外国の人に種をもらって畑に蒔いてみたらたまたま気候が合ったのだと言っていた。観光客からの評判もよく、わざわざそれを買いに来る人もいるらしい。

基本的に外来種の花というのはとても強く、日本の原種である山野草の住処を奪ってしまうことも多い。だが、このカボチャのようにたまたま土地の気候に合い、文化(と呼ぶにはまだ早いかもしれないが)になっていく種もあるのだ。

このカボチャは、明らかに「ヨソモノ」によってもたらされたものである。だが、その「ヨソモノ」が一つの文化になろうとしている。当事者の感情を尊重するがあまり、ありがた迷惑だとヨソモノを拒否していたら、このカボチャは生まれなかっただろう。ヨソモノやありがた迷惑から輸入される種こそが、新たな文化の種の可能性でもあるのだ。

いや、そもそも、何かを変えるような大きな出来事は、いつだって突然外からやってくるものなのだ。それを人は都合よく、運命と言ったり奇跡と言ったりするだけなのだ。しかしいくら綺麗な言葉で表現しようが、実際のところそれは、想定すらしなかった「事故=アクシデント」のようなものなのだ。

「当事者の尊重」や「ヨソモノの排除」は、悪い種の可能性を摘むが、良い種の可能性も摘んでしまう。しかし、アクシデントは想定外の出会いがなければ生まれない。そして、その想定外の出会いはいつでも、「ヨソモノ」によってもたらされるのだ。

もちろん、すべてを外に解放することには大きなリスクを伴う。輸入される種は、良い種の可能性もあれば、悪い種の可能性もある。山野草を滅ぼす花の可能性もあれば、美味しいカボチャの種の可能性もある。

ただ、(こんなことを言ってしまうと元も子もないかもしれないが、)結局のところ、何をどうすれば、何がどうなるのかなんてまったくわからない。どんなに考えたとしても、予想外のアクシデントが起こる可能性だってあるし、何も起こらない可能性だってある。いや、わからないからこそ「アクシデント」なのだ。「わからない=想定できない」ということが重要なのだ。

かと言って、じゃあ何をやっても同じ、何が起こるかなんてわからない、みんなそれぞれ勝手にやればいい、というわけではない。悪いアクシデントの確率を下げ、良いアクシデントの確率を高めるために、人間にはできることがある。それは、すごくかんたんなことで、すごく当たり前のことで、「一生懸命に考えること」である。

バタフライエフェクトという話があるように、社会というものはとても複雑である。何をどうすれば、何がどうなるのかなんてまったくわからない。だから、今までのことこれからのこと、論理的なこと感情的なこと、都市のこと地方のこと、経済のこと文化のこと、自分のこと相手のこと、いろんなことをしっかりと勉強して、考えて、その上で、一人ひとりが自分にできることを一生懸命にやっていくほかない。そしてそれが、ーーいや、それだけが、ーー良いアクシデントの確率をほんの少し高めるのだと思う。だからぼくはいま、こんな文章を書いている。

※この文章は、2019年9月20日に配信された「UNLEASHニュースレター」内のコラムに、大幅に加筆・修正したものです。