先日、Twitterのタイムラインで話題になっていたネタについて話したら、相手がポカンとした顔でこちらを見つめていた。どうやら私とその人が触れている情報はまったく異なるらしい。

ここ数年で「フィルターバブル」という言葉が広く知られるようになった。検索エンジンやSNSでは、アルゴリズムが勝手に好みの情報だけをフィルタリングし、見たい情報以外を遮断してくれる。

その結果、私たちは他者と摩擦の起きない“バブル”に安住し、価値観や意見の異なる人の意見に触れ、対話をする機会を失いつつある。代わりに、それぞれの立場が信じる「正義」がぶつかり合い、炎上しては忘れ去られる。そんなサイクルが何度も何度も繰り返されている。

「分断」の時代にメディアが担える役割を考えるため、「UNLEASH」では、ライター・編集者の望月優大さん(@hirokim21)を迎えて、小さなゼミを開催している。

分断を大きな軸に、グローバリゼーションや格差、自由、ポピュリズムなど、抽象度の高いテーマについて、書籍や映像作品を題材にディスカッションを行う。

今回取り上げたのは、リチャード・セイラー、キャス・サンスティーンによる『実践 行動経済学』。本記事では、書籍の内容と、ゼミ内で挙がった議論を紹介したい。

世の中は選択アーキテクトで溢れている

学校の食堂で、メニューの内容はいっさい変えず陳列の方法を変えたら、人が手に取る料理は変化するだろうか。

答えは「YES」だ。やり方によっては、食品の消費量を25%も増減できるという。

こうした、「人が何を選択するか」に影響する設計の担い手を、『実践 行動経済学』は、“選択アーキテクト”と定義する。

食堂で料理を並べる人だけでなく、選挙の投票用紙デザインする人、リツィートしやすい文言をツイートする人も同じ。選択アーキテクトは、決して特別な役割ではなく、誰もが人生のどこかで担う役割なのだ。

その“選択アーキテクト”として、人に影響を与える立場になったとき、私たちはどのように振る舞うべきなのか。本書は「有益な選択を促すよう『ナッジ』すべき」という立場を取る。

「ナッジ」とは、人間が特定の選択を取るよう、環境を設計する行為だ。例えば、食堂で目線の高さに野菜のトレーを置くのはナッジだが、野菜以外のジャンクフードを禁じるのは、選択の自由を奪っている点でナッジではない。

果物を取るために手を伸ばす“自由”は維持しながらも、進んで取りたくなるような“誘導”を行う。これにより、人は強制されたという抵抗を感じず、自ら進んでよりよい選択ができる。

どうして私たちに“ナッジ”が必要なのか

とはいえ、なぜ他人にナッジされないといけないのか、自らよりよい選択肢をしたいと感じる人もいるだろう。

しかし、悲しいことに人間は“非合理的”だ。本書では、その根拠として2つの思考システムを紹介する。素早く作用し、本能的に反応し、感じる「自動システム」と、課題解決のための合理的な思考「熟慮システム」だ。伝統的な経済学は、後者のように合理的な人間を想定してきたが、実際の人間は前者に偏りがちで、容易に認識を誤ってしまうという。

そのうえ、複雑すぎる保険やダイエット支援サービスなど、人間の非合理性から利益を得ているビジネスが世の中に溢れている。悪い「ナッジ」に抗うためにも、私たちには良い「ナッジ」が必要なのだ。

本書では、そのナッジに必要な要素や、実際に社会において機能した事例を紹介している。

人にとって、“よりよい選択肢”とは何なのか

ゼミ内の議論で挙がったのは、本書の発売された2008年と現代における、“選択アーキテクト”に対するリアリティの違いだ。

本書が発売された2008年に比べ、他人に影響するための手法は洗練されている。例えば、どうすれば人が記事を読みたくなるか、動画をリツィートしたくなるのか、といったノウハウは検索すれば無数に見つかる。能動的に調べなくとも、周囲を真似ているうちに、自然とノウハウが身についてしまう。

そうした選択アーキテクトとしてのスキルが高まる一方、選択アーキテクトだと自覚し、より良い選択を促そうという自覚のある人は少ない。ウェブ上には扇動的なタイトルや誤ったクリックを促す広告が溢れている。

本書では「人をより良い方向に『ナッジ』すべき」というスタンスを示しながら、いったい何が「より良い」なのかという議論はされていない。冒頭の例でいえば、どうして野菜を食べたほうがいいかは書かれていない。

“一億総アーキテクト時代”の現代には、「そもそもどの方向にナッジすべきか」について議論を深め、選択アーキテクトたちが自らのポリシーやモラルを育む必要があるのではないだろうか。

今、メディアができる「ナッジ」のあり方

それを踏まえ、「メディアはどのようなナッジを起こしていくべきか」についても議論を行なった。

そこで挙がったのは「熟慮システム」を起動させるような仕掛けの重要性だ。SNS上には、一時的な感情を煽り、安易な行動を促す言葉が溢れている。それらが政治や社会課題に対する議論を妨げてしまうことは珍しくない。

タイトルや本文の言葉選び、記事の長さによって、人が落ち着いた状態で、対話を促すナッジが起こせないだろうか。

また、それに伴い、ビジネスモデルの転換も必要だろう。ビュー数を稼ぐためなら、人間の非合理的な感情のみに訴えかけ、不特定多数から素早い反応を得るほうが手っ取り早いからだ。

広告型のモデルから脱し、特定多数に向けて、「熟慮システム」に切り替えるような発信は、メディアに携わる選択アーキテクトとして、ひきつづき試行錯誤を続けたいと思う。

次回のゼミでは、キリスト教であるレバノン人と、パレスチナ難民のささいな口論が、国家法廷闘争に発展する様を描く「判決、ふたつの希望」を取り上げる。