ある大雨の朝、テレビをつけるとニュース番組が流れていた。隣では絵本に飽き、ぬいぐるみに飽き、プラレールに飽きた娘が不機嫌そうに絵を描いていた。
大雨に関するニュースを読み上げるアナウンサーの顔の周りには、各地の現況が文字情報として流されていて、わたしは目の焦点をどこにおけば良いのかわからず、ただ半口を開けて画面を眺めていた。しばらく眺めていると、突然速報音が流れ、画面の上に文章が浮かんだ。
そこには、オウム真理教の教祖である松本智津夫元死刑囚の死刑執行手続きがはじまった、というようなことが書かれていた。

偶然にも村上春樹氏の『アンダーグラウンド』(オウム真理教の被害者にインタビューを行ったノンフィクション作品)を読み終えたばかりだったわたしの胸にはさまざまな思いが去来した。しかし、外で遊べずフラストレーションを溜めた娘の怒号によってそれらはすぐにかき消され、わたしの心は日常に引きもどされた。

それから数日後、Netflixオリジナルのドキュメンタリー、『ワイルドワイルドカントリー』のレビュー企画が編集部で持ち上がった。アメリカ、オレゴンの片田舎に巨大宗教団体のコミューンが作られ、それが崩壊するまでを描いたというこの作品。描かれる宗教団体-ラジニーシ教団-の栄枯盛衰は、オウム真理教のそれによく似ているように思えた。
オウム真理教関連事件に関し、言いようのない違和感を抱えたままだったわたしは、一も二もなくレビュー執筆を志願し、あっさり受け入れられた。そして、『ワイルドワイルドカントリー』を見て、『アンダーグラウンド』の続編であり、著者である村上春樹氏が、オウム真理教の信者にインタビューを行った作品『約束された場所で―underground 2』を読んだ。

1992年生まれのわたしはラジニーシ教団がユートピアを作ろうとした1980年代前半のことも、地下鉄サリン事件が起こった1995年3月20日のことも知らない。さらにいえば、オウム真理教とラジニーシ教団を関連づけて語ることにしてしまったけれど、厳密にはまったく違う二つのものの相似している部分を切り出しているに過ぎず、わたしは彼らのごく一部を見て「ああでもない、こうでもない」と考えている野次馬の一人だ。そのうえで、わたしはそれらの事件を人ごととして切り捨てられず、たんなるオカルトやゴシップの類として消費できなかった。社会に失望し、心のどこかで理想郷を夢見る人間の一人として。

理想郷が作れない

『ワイルドワイルドカントリー』は各話約1時間、全6話で構成されている。当時の映像資料を挟みながら、ラジニーシ教団の関係者と街の地元住民、教団に関わる事件の捜査をした警察関係者によってコミューンの形成から崩壊までが語られていく。

物語はしんしんと雪が降りつもる寂れた街並みの映像から始まった。
この街に彼は突然現れた。黒く長いひげをたたえたインド人宗教家。名をバグワン・シュリ・ラジニーシという。
ロールス・ロイスがトレード・マークの彼は、資本主義を否定しない教えと動的瞑想という独自の瞑想法、そしてフリーセックスを唱えることで、多くの知識人や資本家たちの心を掴み、その評判を国内外へと拡大させていった。インド、欧米を中心にサニヤシンと呼ばれる信者を増やしていったバグワンは、国際的な拠点を欲した。そして、オレゴンにある人口数十人の村、アンテロープに行き着く。

「ラジニーシプーラム」

それが彼が作る理想の世界だった。
サニヤシンたちは畑を耕し、自給自足の仕組みをつくり、建材を組んで家を建てた。結婚も、恋愛も自由。みな笑っていて、その手はかたく繋がれている。ユートピアの一つの形がそこにはあった。
一方、アンテロープの地元住民たちは奇妙なインド人グルとその仲間たちを遠巻きに、疑い深く眺めていた。住民の多くは労働階級で、敬虔なキリスト教徒だった。
はじめは渋々ながらも歓迎の意思を見せていた彼らだが、信者たちによるフリーセックスの様子や奇妙な瞑想シーンがおさめられた告発テープの公開やコミューンの拡大を目の当たりにする中で、ラジニーシプーラムを敵視するようになる。

文明の崩壊です。自由恋愛なんて認められません」、「田舎者で教養のない私たちを彼らは見下している」、「彼らは悪です」
『ワイルドワイルドカントリー』、第2話

地元住民による根拠のない批判、徹底的な否定、これらによく似た言説をわたしはたしかに知っている。そこには間違いなく、旧態依然とした社会と、理想の世界を追い求め、新しいコミュニティを作り出そうとする人々の対立構造があった。

よくわからなくて、よく知っているもの

オウム真理教という「ものごと」が実は、私にとってまったくの他人事でなかったからではないか、ということだ。その「ものごと」は、私たちが予想もしなかったスタイルをとって、私たち自身の歪められた像を身にまとうことによって、私たちの喉元に鋭く可能性のナイフを突きつけていたのではないか?
『アンダーグラウンド』、「目じるしのない悪夢」、村上春樹

ラジニーシプーラムを否定し、弾圧する現地住民たちに対し、現地民との融和を求めていた教団の人々も、次第に武装化するようになる。
選挙によってラジニーシプーラムの人々が政権を握るようになると軋轢はさらに深まっていった。対立が深まる中、教団の一部の人々は過激化し、犯罪行為に手を染めていく。ラジニーシプーラムの崩壊のはじまりだった。

はっきりいって、わたしは自分が今の社会に適合しているとは思わない。日々たくさんの不満を抱え、旧来的な価値観にもうんざりしている。だからこそ、新しい社会をより良い世界を希求していこうというラジニーシ教団の人々の姿勢には(教義とか瞑想とか全部置いておいて)一種の共感の念を抱いた。そして、反対に根拠のない批判を繰り返すアンテロープの地元住民の言動には違和感を覚えた。
けれど、やはり、犯罪を犯し、人々を傷つけた彼らを擁護しようがない。何より、ラジニーシプーラムにいた彼らとわたしのあいだには決定的な違いがある。

「ずっと自分の居場所がないと思っていました。家族といてもです。やっと居場所を見つけたと思いました」
『ワイルドワイルドカントリー』、第1話

娘が好きだ。夫が好きだ。家のドアを開けるたびに「帰ってきたんだ」と安堵する。わたしの居場所は間違いなくそこにある。社会の中にある家庭に。
それは本当に幸運なことなのかもしれない。あるいは当たり前のことなのかもしれない。いずれにせよ、この生きづらい社会の中でしかし居場所を見つけたわたしは、 ドキュメンタリーの中でラジニーシプーラムにいた人々が繰り返し語る愛や絆という言葉をどこか疑わしく、そして恐ろしく感じる。

この『ワイルドワイルドカントリー』 というドキュメンタリー、そして 『アンダーグラウンド』および『約束された場所で―underground 2』 というノンフィクション文学は、宗教というものが絡み、多くの人を巻き込んだ未曾有の事件に対し、犯罪者の仲間として忌避されている彼ら(カルト教団や悪と呼ばれる)と特に問題なく社会を生き、 巻き込まれた人々(被害者や正義と呼ばれる)の過去や生活、思想、現在をインタビュー形式で掘り下げていった作品だ。 生身の彼らを目の当たりにしたわたしたちはつい頭を抱え込んでしまう。

彼らとわたしたちを隔てる大きな壁なんて本当はないのかもしれない

SNS のタイムラインを眺めていると、強烈な差別やどうしようもない偏見、時には手に持ったスマートフォンをかなぐり捨てたくなるような残酷な言葉が目の前に映し出される。カッと頭が熱くなった後、私はそれらをどうやったら社会からなくすことができるのかということを考える。正義感、として処理されてしまいそうな感情の中に、どす黒い小さな塊が渦巻いている。それは時間が経てば消えていく。

けれど、私の中に正義の気持ちが生じるたびに、心のどこかでその小さな塊のことが引っかかる。だからこそ考え続けなくてはいけない。この社会で学び、働き、育児をする、ごく普通の生活の隣にある暗くて深い闇について。