6月12日

大学生協「ショップルネ」の書籍コーナーで『文學界 2018年 7月号』を買った。領収書を貰った。

6月13日

袋に入れっぱなしだった『文學界 2018年 7月号』を引っ張り出す。真ん中に頬杖をついてたチェーホフのイラスト。その横にはドドンと村上春樹の名が印字されている。しかしわたしが真っ先に開いたのは112ページ。町屋良平「愛が嫌い」。いいタイトル。とても、綺麗だ。

6月18日

町屋良平の『しき』が芥川賞候補に選ばれたことを知った。

7月7日

26歳になった。わたしは依然、女で妻で母親のままだった。最近では文章を書いて日銭を稼いでいる。この、“文章を書く”においてわたしの強みとなっているのが、子を育んでいるという圧倒的な事実なのだろうなと思う。育児というのは、本当に時間もお金も体力も精神力も多大に必要とするもので、だからこそかたるべきことも多く、興味も示されやすい。さらに、子育てを語るのは現在進行形で毎日、本気で育児している人(たとえば、親を代表とする各種保護者や、保育士など)でないとならないという風潮が世間にはあって、それゆえ、大した経歴も執筆実績もないアラサーに片足突っ込んだほぼ無職の女がこのように文章を書く機会を得ることができたのだろう。
そうした仕事の延長線上で町屋良平の「愛が嫌い」という小説に出会った。町屋良平氏は、2016年「青が破れる」で文藝賞を受賞し、同作で三島由紀夫賞候補に。2018年には「しき」で芥川賞候補に選ばれた。わたしはこうした彼の経歴についてWikipediaで調べるまで知らなかったのだけれど、ようするに彼は着実にキャリアを積み上げつつある気鋭の小説家というわけである。
小説は主人公“ぼく”が2歳1ヶ月の男の子ひろと散歩するシーンからはじまる。1ページと読み進めないうちにわたしは“ぼく”がひろの肉親ではないのだと悟った。

ぼくが手を繋いでいたからこそ、ひろは工事現場の光景をあれほど追えたのかもしれない。子供の興味はすぐにうつろうから、もうひとりでもあるけるひろならちゃんと前をみて、あたらしい興味をさがしてしまっていたのかも。ぼくは自分の支えられるわずかな右腕の重みだけで、ひろの世界選択を阻害していないかとややもすると不安になるときがある。
町屋良平「愛が嫌い」、p112『文學界 2018年 7月号』

2歳1ヶ月のひろの母親に頼まれ平日の夕方、保育園のお迎えを代行しているというこの男のこの感覚、絶対肉親だったら抱かないよな、と思う。
子供を産む数年前、友人の子供を預かったときのことだ。わたしは首が座ったばかりの生後2ヶ月のその子の顔をじぃっと見つめていた。彼女の瞳の動きやまつ毛の瞬き、三角にとんがったり、まあるく引き延ばされたりする唇、「エ゛ッ」というわずかなわななきにすら意味を探して、ぎこちなくゆさゆさと彼女を縦方向に揺らしたり、意味の通じていない言葉を話しかけたりしたことを思い出す。当時、彼女の母親はそうした彼女の微細な情動の変化にあまり関心がなさそうに見えた。
親になってわかったのだが、目の前の我が子と向き合うというのはなかなかに難しい。一つの小さな選択にしても、そこから緩やかに分岐する道の先はまったく違う可能性を秘めているのではないかと思いめぐらしてしまう。そして、つい考えなくてもいい先の先まで見とおそうとする。目の前にいる1歳9ヶ月の娘に、過去の、そしてはてしない未来の彼女を重ねあわせてしまう。だからこそ、わたしはもう、“ぼく”のように2歳1ヶ月のひろを2歳1ヶ月のひろとしてまっすぐ見つめることができない。“ぼく”のように子どもから選択肢を奪っている可能性に対して気軽に考えることなんて、わたしには、もう、ぜったいに、できない。

夫の実家でスティービー・ワンダーの『ハッピー・バースデイ』が流れる中、夫がロウソクの火の消し方を娘に教えている。フリのはずがマジで消してしまって振り出しに戻る。

7月17日

愛がこわいぼくは好きな相手と生活しただけで萎えてしまって、それでもなんとかやさしくしたかった。しかし、「情が湧く」という定型の実感だけは全くもたらされなかった。「愛がこわいんだよ……生活がこわいんだよ……。こんなことひとにいえなかった」
町屋良平「愛が嫌い」、p125『文學界 2018年 7月号』

午後5時、娘を迎えにいってスーパー。せめて晩御飯くらい気合い入れてハンバーグつくろってミンチ肉カゴに入れた。500g698円。弁当コーナーいったらロコモコ弁当が398円の半額。葛藤。娘に太もも叩かれて、ロコモコ弁当2つと天ぷら弁当(498円の半額)を左手に抱えた。ミンチ肉は戻した。明日用に冷しゃぶの具材も入れて、お会計。

7月18日

2018年上半期芥川賞受賞作の発表の日だった。「愛が嫌い」を再読した。

ひろを見つめる“ぼく”の視線をなぞる。わたしと娘のあいだにないものを探す。
録画した子供向けダンス体操番組『Eダンスアカデミー』を見て踊り狂う娘を見ているあいだにもこの子はダンスが好きなのだな、と納得しつつ、ダンスが好きという感覚の先に、6歳の彼女は、18歳の彼女は、何を望むのだろう、と身震いしてリモコンの停止ボタンを押しそうになる。
親というのは、多かれ少なかれ我が子から何かを奪う、という感覚に対して自覚的に無自覚になってしまうものだ。
親になったらわかるなんて思いたくなかったけれど、わたしは思春期にわたしが憎んだ「親の狡さ」を体得しつつある。この負い目が、早々にわたしに“ぼく”とひろの関係から湧き立つ違和を嗅ぎとらせる。眩しくて、疎ましい。

芥川賞が発表されてしまった。受賞作は高橋弘希の『送り火』。webニュースで『しき』も肉薄していたと知って、けっこう悔しくなる。

7月19日

おれはそういうヤツだよ。ほんとにクズだからね。ちょっとひろに関わりすぎてしまったよ
町屋良平「愛が嫌い」、p143『文學界 2018年 7月号』

“ぼく”:出版社勤務を経てファミレスでの夜勤アルバイトで身を立てる29歳。
3度通読する中でこの男がどういう人間かなんとなくわかっていたけれど、あらためてプロフィール化すると少し意外な発見をした気持ちになる。
非社会的っぽく生きるコイツは日々の暮らしの中に「ぜつぼうと表裏一体である」充足を覚えているとのこと。日々働き、育児をし、時には公園で出会った人妻に恋愛めいた気持ちを抱きつつ予感する“ぜつぼう”ってなんなんだろうか。
人の懐に入るのがうまいくせに、自分の懐には入れてくれないあなた・相手を慮るふりをして責任を放棄するのがうまいあなた・興味ないふりしてじっとりと私を観察するあなた。

19歳、男にフラれること百戦錬磨だった頃の自分を思い出す。好きになるのは大体こういうヤツだった。感性が鋭くて、人当たりもよくって、ちょっと不幸っぽい。でも、結局こういうヤツの人当たりの良さは他人に対するどうでも良さなんだよね。って2人くらいの男の顔が浮かぶ。まとめて全員不幸になってくれ頼む、と願った。わたしは、コイツが、コイツらが、きらい。
この男と対照的にわたしが共感し、幸福になってくれと願ってしまうのが、多忙かつ精神的に不安定な夫を持ち、会社との時短勤務交渉にも失敗し、藁にもすがる思いで目の前の都合のいい男に頼るワーキングマザーの真菜加だった。

「母親なのに本が読めるなんて、贅沢かなあ」
と、ふいに真菜加がつぶやいた。とくべつなんらかの思想が込められたようではなかったが、ハッキリぼくになにかを問うている口ぶりだった。
「当然のことだよ」
とぼくは応えた。
「ってみんないうだろうね。その当然のことができないシステムなのに」
とつけ加えた。
真菜加はニッコリ笑う。
「きみがモテない理由がわかるようだわ」
これからもよろしくね。と真菜加はぼくの肩をポンポン叩いた。いつもひろにそうするように。
町屋良平「愛が嫌い」、p131『文學界 2018年 7月号』

思わずため息がでる。疲れはて、眠り、愚痴を吐き、酔いつぶれる真菜加。小説に描かれていない部分でしんどさをすべて背負って、押しつぶされそうな真菜加の姿をすぐ後ろに感じる。
恋人も作らず、夢や生きがい、愛を「ないないづくし」で生きているのだと自嘲する“ぼく”と正社員として会社に所属し、伴侶をもち、子をもつ真菜加。彼らの肩書きとその内情のいびつさに、現代社会の絶望のようなものを感じる。現代の、この日本で、まともに働き、結婚をし、育児をする、その先にある、深い深い絶望を。
子供が生まれたら人格変わるよ、っていつかどこかで聞いたけれど、わたしは、わたしの人格、本質、なかみ、核、そのようなもの、は、ともだちと夫とたっぷり8時間桃鉄した娘が生まれる直前だったあのときと、借りた自転車で比叡山を越えた大学生だったあのときと、あるいは『アメトーーク』を見て母に「またそんなくだらないものを見て」と嘲笑われた中学生だったあのときとなんら変わっていない。
わたしは今なお、キングボンビーに憑きまとわれ、夫のゴールドカードにしてやられ、ボロ負けして悪態をつきたいし、帰りたいと願いながら一人でママチャリを漕いでいたいし、邪魔するものを無視してアメトークを見続けたい。しかし、わたしには桃鉄のカセットが入ったニンテンドーゲームキューブの電源を入れることができなくて、一人でママチャリに乗ることができなくて、邪魔のない環境でバラエティを見続けることもできなくて、生後2ヶ月のあの子を見つめたように、目の前の娘を見つめることすらもうできない。
そして、変われないわたしが変わりゆくわたしの生活からどんどん引き剥がされていくのと呼応するように、社会的に生きようとすればするほど、社会から疎外されていく。
当然とか当たり前とか常識が乱立する世界のすきまの、真っ暗な谷のそこにいる真菜加、いや、これはわたしかもしれない。わたしにとってひろと“ぼく”が手を繋いで散歩する姿は、儚く、まっすぐに光り輝いてみえる。

娘と一緒にねむった。

7月24日

ひろといると世界に真剣に感動してしまうのだ。そのマンションがおもしろくて、ぼくは饒舌になっていた。ひろはたのしそうでもなくただ眺めている。手を繋いだまま、同じマンション、おなじ空を眺めている。
そのとき、ぼくは心の底からおもった。
しあわせだ。
町屋良平「愛が嫌い」、p140『文學界 2018年 7月号』

「愛が嫌い」を読み返し、変われないわたしにも変わったところはあるな、と思い直した。
たとえば、わたしは“ぼく”がきらいだ。ただ、きらいだ。けれどいつかのわたしは“ぼく”が好きでたまらなく好きで、それは、“ぼく”がいつかのわたしによく似ていたからかもしれない。
育児をして家事をして仕事をして夜9時にはねむってしまう26歳のわたし。飲食店の夜勤のあと、飲み明かして朝5時の1LDKでつめたい万年床に潜り込んだ22歳のわたし。母親をうっとおしく感じて反抗した16歳のわたし。母でもない父でもない大人と手を繋いで空を見上げたかもしれない2歳のわたし。
自由に寝て起きて気ままに外を歩きたいと願うわたし。あたたかい家族のぬくもりの中で眠りたいと願ったわたし。母親じゃない誰かに手を握ってもらいたいと願ったわたし。繋いだ手を振りほどいて母親のもとにかけよりたいと願ったかもしれないわたし。
わたしという直線上を生きる中で、未来を希望にしたり、過去を希望にしたり、絶望を希望に変えたり、希望を絶望に変えたりしてきたわたしは、実際のところいつだって同じ分量の絶望と希望を、あるいは憎悪と憧憬を胸に抱いていたのかもしれない。
しかし、それを理解した上でなお、わたしは、“ぼく”が、いつかのわたしが、憎いのに、羨ましい。疎ましいけど、近づきたい。
この感覚を持ち続けるかぎり、わたしは、これからも当たり前のこの世界の中で文句を垂れ流し、悪態をつきながら生きていくのだろう。ありていに言えば、絶望があるかぎり、希望だってそこにあり続けるのだ、ということを経験的に知ってしまっているのだから。

淡々と、しかし的確に現代を生きる人々の姿を捉えながら独自の情景描写で描かれたこの小説は、苦しいのに爽快で、切ないのに希望で溢れていた。