(以下、物語の展開に触れる部分があります。ご注意下さい)
母の死とトラウマ
物語の舞台は、第二次世界大戦中の日本。空襲警報が鳴り響く夜に、主人公の少年・眞人が目を覚ます。町は爆撃され、騒然としている。眞人の母親・ヒサコは離れた場所にいて、そこで火災が起きる。彼は、群衆をかき分けながら、母のもとへ辿り着こうとする。しかし、彼の思いも虚しく、母は業火に包まれ、死亡してしまう。
衝撃的な物語の始まりに、観客は驚かされるはずである。特に、眞人が群衆の中を走り抜けるシーンは、残像のエフェクトが強くかけられ、彼の恐怖や不安、そしてその場を包み込んでいる非日常性が、鮮烈に表現されている。
母の死後、父は母の妹・ナツコと再婚し、一家は田舎に疎開することになった。ナツコの腹には父との新たな生命が宿っていた。疎開先は大きな邸宅で、そこには住み込みの使用人もいた。眞人を取り囲む世界は急速に変わっていく。しかし、彼はその変化についていくことができない。
彼の頭にはあるイメージがこびりついていた。それは、炎の中に飲み込まれ、死んでいく母の姿だ。何度も自分の名前を呼びながら、消えていく母。それに対して自分は何もできない。ただ彼女が死んでいくのを眺めていることしかできない。その悪夢が、何度となく去来し、その度に彼を苦しめる。新生活のなかで前に進もうとしても、そのイメージが彼を立ち止まらせ、停止させてしまう。
要するに、眞人はトラウマを抱いてしまったのだ。何の理由もなく、理不尽に、彼の母親は殺された。彼が生きていた世界は、突然崩壊し、失われた。どれだけ新しい生活が始まっていても彼にとって世界は壊れたままなのだ。彼は何度も母の死を思い出す。しかしそれはどこにも結び付かない。彼は、そのどこにも行きつかないトラウマの反復に、閉じ込められてしまったのである。
塔のなかの幻想の世界
そんななか、彼の周りで不思議なことが起こり始める。奇妙なアオサギが出現し、彼に不気味なまなざしを向ける。アオサギを追いかけていくと、森の茂みの奥に、誰も寄り付かない古びた塔を見つける。その塔は、かつて母親の大叔父が建造したものであり、そしてその大叔父は発狂して姿を消してしまったという。その後、身重であるはずのナツコが、突然姿を消し、その塔のなかへ彷徨い込んでしまう。
眞人は、ナツコを連れ戻すためにその塔の中に足を踏み入れることを決意する。そこは、およそ現実とは思えないような、幻想的な出来事が目まぐるしく展開する空間だった。眞人は、それらに終始戸惑いながらも、ナツコを探して塔の内奥へと入り込んでいく。
眞人が塔に入り込む場面から、物語の雰囲気は大きく変わる。宮崎駿らしい、自由で奔放な想像力と連想がふんだんに盛り込まれた、幻想的な表現が続く。観客は一瞬も退屈しないだろう。
しかし、そうした幻想には、いずれも、非常に強烈な「死」のイメージが付きまとう。たとえば眞人が海に浮かぶ島に辿り着くシーンがある。その島は19世紀の画家ベックリンの『死の島』そのものである。物語のなかでは、島の中心には石が詰まれ、そこは「墓」と呼ばれている。塔の中はそうしたイメージの連続なのだ。
本作に対する評として散見されるのは、この塔の中の表現が、あまりにも無秩序すぎる、ということだ。たとえば想田和弘は、『千と千尋の神隠し』と対比しながら、本作で描かれる「迷宮世界」が曖昧かつ複雑であることを批判している[1]。
ただ、筆者の解釈では、本作における幻想の世界は、『千と千尋の神隠し』の異世界とは異なるものである。後者の場合、それはあくまでも現実と同じ構造を持つ平行世界だ。しかし本作は、明らかに眞人の精神世界であり、いわば彼の無意識の領域である。だからこそ、自由に連想された混沌が、混沌のまま描かれているのだ。
その意味において、塔のなかの無秩序な表現に対して、「分からなかった」という感想が抱かれるのは、当然である。むしろ、分かってはいけないのだ。「分かる」ということは、それを現実の一部として体系化できるということである。それに対して本作が表現しているのは、そうした体系化を拒むもの、体系化される以前の混沌だからだ。
炎を操る少女との出会い
眞人は、幻想の世界のなかで危機に陥る。しかし、突如現れた少女・ヒミが、彼を窮地から救い出す。ヒミは炎を自由に操る不思議な力を持っていた。劇中では、炎の中から顔を出した彼女が、眞人に優し気に語りかける印象的なシーンが描かれる。やがて二人はナツコを現実の世界に連れ戻すために協力する。
ようやくナツコを発見した眞人だったが、ヒミは幻想の世界の住人たちに捕らえられ、連れ去られてしまう。奔走の末、ようやくヒミと再会を果たした眞人は、そこで大叔父──塔を建造し、発狂して蒸発したと言われている人物──と出会う。大叔父は眞人に対して、自分の後を継いでほしい、と懇願する。しかし、眞人はこれを拒絶し、ヒミとともに現実の世界へ帰らなければならないと告げる。二人は現実の世界へと通じる扉へ向かう。
しかし、ヒミは眞人とは別の扉に手をかける。眞人はそこで、ヒミが自分の母親であることを確信する。彼は、「そのまま行けばあなたは火事で死ぬ」と言って、ヒミを引き留めようとするが、彼女は「眞人を産めるなんて幸せなことじゃない」と言う。二人は別々の扉を開け、それぞれ別の現実へと帰還する。
眞人は、ナツコを連れて、父のもとへと帰っていく。塔を出た彼の胸には、かつてのようなトラウマはもうない。むしろ、ナツコを母として受け入れ、新しい生活を生き抜こうとする決意が、彼の表情に浮かんでいる。そのようにして物語は幕を閉じる。
この物語をどのように捉えればよいのだろうか。多くの場合、最初に意識を奪われるのは、塔の中の幻想的な表現の数々だろう。つい、それらが何を意味しているのか、あれこれ解釈したくなる。もちろんそれはそれで楽しい。しかし、そうした観方をしていると、かえってこの物語の全体像は見えなくなってしまう。
塔に入る前、眞人はトラウマを抱えていた。彼は塔の中で異常な体験をした。そして、塔を出てきたとき、彼のトラウマは解消されていた。塔の中で起きたことが、彼のトラウマを治癒したのだ。筆者の考えでは、ここに本作の核心がある。つまり本作は、「治癒」の物語なのである。
トラウマからの回復
宇野常寛は、眞人の母親との関わり方のうちに、「極めて戦後的なありふれたマザーコンプレックスの発露」を見いだす。彼によればその理由は、宮崎が母親を「ヒロイン」として登場させ、「彼女に自分を産むためなら迷いなく命を差し出すと宣言させることで主人公の少年に絶対的な承認を与え」ているからだ[2]。
眞人が母親を愛していたのは事実だ。しかし、彼がトラウマに苦しめられていたのは、果たして「マザーコンプレックス」に過ぎないのだろうか。そうであるとしたら、もしもそうした執着を持っていなければ、たとえ空襲で母親を殺されても、眞人はトラウマを抱かなかったのだろうか。そんなことはありえないように思える。
物語の冒頭、母親が死ぬ場面では、何よりもその死の理不尽さが強調されている。眞人は、それまで安心していた世界を、唐突に、何の前触れもなく、奪われたのだ。彼は母親の愛に飢えていたのではない。世界の無意味な解体に苦しんでいたのである。
そうであるとしたら、彼の苦しみを救済しうるのは、母親からの「絶対的な承認」ではない。むしろ、母親の死を受け入れることを可能にするような、世界の再統合こそが必要なのである。そして、塔のなかの幻想的な体験が、それを実現したのである。
では、どのようにして世界は再統合されたのか。その鍵を握るのが、ヒミが炎を操る少女として姿を現した、ということである。眞人の母親は空襲で焼死した。その母親が、しかし、幻想の世界では炎を操っている。ここには明らかな意味の連続性がある。無意識の領域における自由な連想が、母親の死の再解釈が作用している。
新生活を始めた眞人を立ち止まらせていたのは、炎に包まれて死んでいく母親のイメージだった。しかしヒミは、まったく同じ構図を取りながら、炎の中から顔を出し、眞人に微笑み、語りかける。前者は後者に取って代わられる。それによって彼はトラウマから解放されていくのである。
彼女の炎は眞人を救う。あるいは眞人は彼女を救出するために幻想の住人と戦う。そのようにして、反復するトラウマは新たな意味を獲得し、刷新されていく。そしてそれは、受け入れられる物語へと変容し、世界は再統合されていく。それが、幻想の世界で描かれる、眞人の治癒のプロセスなのである。
現実を生きるための虚構
渡辺由美子は、本作のメッセージを、「人間は醜さを抱えた存在で、罪も犯すがそれは自分が生きた痕跡なのだから、それを引き受けて自分の人生を生きろ」[3]と要約している。実際に、塔の世界を継ぐことを拒絶し、元の世界へと帰還した眞人の選択には、現実を生き抜くことの肯定が示されている。
しかし、塔の世界で描かれた幻想的な虚構は、ただ現実と比較され、否定されるに過ぎないものではない。むしろ反対だ。眞人は虚構の世界で、母親のイメージを更新することができたからこそ、そのトラウマを治癒することができた。そして、そのように治癒したからこそ、その後の現実と向かい合うことができるのだ。彼にとって、現実を生きるためにはむしろ虚構が必要だったのである。
もしも虚構の力を借りることができなければ、眞人は永遠に炎に包まれた母親のイメージに囚われていただろう。彼が生きる現実には、そのイメージを修正してくれるものは何もない。彼は、永遠に変わることのないそのトラウマに閉じ込められ、どこにも進めなくなっていただろう。ただ虚構だけが、その扉を開き、イメージに新たな意味を書き加えることができるのだ。治癒は、そうした創造性によって果たされたのである。
あるいはこう言い換えてもいい。虚構の創造性こそが、現実を治癒することができる。虚構を切り捨て、ただ現実だけを生きようとするとき、人間はトラウマから立ち直ることができない。そして私たちが生きる現実は、そうした虚構の力を頼らなければ生き残れないほどに、過酷で、残酷で、理不尽なのだ。
もちろんその虚構はエゴイズムである。眞人は自分が生きるために都合の良い物語を空想しているだけなのかも知れない。しかし、それの何が悪いのか。それを悪いと言って非難する権利が、いったい誰にあるというのか。筆者が本作から感じ取ったのは、現実の肯定というよりも、むしろ現実を生き抜くための、そうした虚構の肯定である。
宮崎駿は何を伝えようとしたのか
筆者は宮崎駿の研究者ではない。だが、彼の過去の作品と比較すれば、本作はかなり異色なテーマであるように思える。
たとえば多くの宮崎作品では、自然と文明の対立がテーマとされ、科学技術による環境破壊が批判されてきた。しかし本作には、少なくともわかりやすい形では、そうした対立は見えてこない。また、同じように多くの作品で、少年少女が現実の荒波に揉まれつつ成長する過程が主題化されてきた。しかし本作の眞人を通して描かれるのは、成長の過程というよりも、治癒の過程である。
なぜ宮崎はこの作品を世に送り出したのだろうか。筆者は次のように推測している。すなわち、おそらく彼は、現代社会における虚構の力の衰退を嘆いているのではないか、そうした状況に対して、虚構が現実に対して果たしうる使命を、改めて問い直そうとしているのではないか、ということだ。
虚構の力の衰退は、たとえば、実証性やエビデンスへの異常な執着に現れている。私たちは、物事を考えるとき、自分の思い込みや価値観ではなく、定量的に測定されたデータに基づくよう訓練されている。そうした態度は子どもたちの間にも浸透している。2022年の小学生の流行語ランキング1位が、「それってあなたの感想ですよね」であったことも、それを物語っている。
たしかに実証性やエビデンスは重要だ。しかし、それだけで本当にいいのだろうか。虚構を軽視する態度は、やがて自分の首を絞めることになるのではないだろうか。現実を生きること自体を不可能にさせるのではないだろうか。本作を通じて、彼は私たちにそう問いかけているように思える。
[1] 想田和弘「「君たちはどう生きるか」は偉大なる失敗作?新境地?」2023年8月3日