新海誠監督の最新作『天気の子』が話題を呼んでいる。2016年に公開された同監督の『君の名は。』が大ヒットになり、社会現象を巻き起こしたことは記憶に新しい。そうした事情も手伝って、すでに『天気の子』には賛否両論を含めて様々な批評が交わされている。

『君の名は。』と同様に、本作にもたくさんの魅力が詰まっている。気象を表現する圧倒的な映像美、新宿・池袋・代々木といった東京の都市景観のディティール、「Yahoo!」や「マクドナルド」などの実在するサービス・店舗のリアリティなど、いずれも観衆の目を飽きさせることがない。また、RADWIMPSの音楽も見事に調和しており、筆者はさっそくサントラのアルバムを購入してしまったほどだ。

しかし、それらと並ぶ本作の魅力は、その力強い物語である。この記事では、美術・音楽の面についてはあえて言及せず、その物語の構造を紐解きながら、この作品に込められたメッセージを読み取っていきたい。

【目次】
・身寄りのない二人の恋──物語のあらすじ
・「僕たちは、大丈夫だ」──『天気の子』無責任論
・2度繰り返される「僕たちは世界を変えてしまった」
・社会の自然性の解体
・いくつかの問題点──物語に紛れるノイズ

身寄りのない二人の恋──物語のあらすじ

(『天気の子』公式サイトより引用 https://tenkinoko.com/)

少し冗長になるかも知れないが、『天気の子』のあらすじを確認しておこう。

『天気の子』は、異常気象によって雨が降りやまなくなった東京を舞台にしている。故郷の島から家出をして東京にやってきた少年・森嶋帆高(ほだか)と、母を亡くした後、弟と二人で古いアパートに住む少女・天野陽菜(ひな)が出会い、物語が始まる。

東京に身寄りのない帆高は、ネットカフェに連泊しながら、アルバイトを探す。しかし、明らかな家出少年である彼に雇用先はなく、所持金も底を尽いて、彼はホームレスになってしまう。雑居ビルでうずくまっていた彼は、そこで偶然拳銃を見つけて、それを思わず拾ってしまう。その後、スピリチュアル系雑誌のライターのもとに転がり込み、そこでアルバイトを始めることになり、彼の東京での生活が動き始める。

一方、両親のない陽菜は、小学生の弟を養うために、差し迫ってお金を得られる仕事を探していた。彼女は歌舞伎町の風俗店で働くことを決め、店の男たちに手を引かれていく。その様子を偶然目撃した帆高は、彼女が襲われていると勘違いし、拳銃で威嚇して彼女を連れ出し、廃ビルに逃げ込む。

結局、自分の勘違いであったことを知り、帆高は自分の不甲斐なさに落ち込んでしまう。そんな彼を元気づけるために、陽菜は廃ビルの屋上に彼を誘う。そこには忘れられたように打ち捨てられた鳥居と祠が祀ってあった。そこで、彼女は「ねえ、今から晴れるよ」と言い、祈祷をはじめる。すると、天候がみるみる晴れていき、雨雲が裂けてまぶしい光が降り注ぐ。陽菜は、祈祷することで気象を変化させるという、不思議な力をもっていたのだった。

帆高は、彼女の能力に目を付け、顧客の要望に応じて晴れを作るベンチャービジネスを始めようと、彼女に持ちかける。半信半疑ながらも、陽菜は帆高の提案に乗り、一つ二つと案件をこなしていく。「100%の晴れ女」を自称する彼女の実力に偽りはなく、顧客はみんな満足し、口々に彼女に感謝を告げた。やがてビジネスは軌道に乗り、彼女は自分に自信を持ち始める。そして二人の距離も縮まっていく。

ビジネスをする過程で、帆高は天気がいかに人々の気持ちに作用するのかを知り、感慨を受ける。彼は言う。「天気って不思議だ。ただの空模様に、人間はこんなにも気持ちを動かされてしまう」。

しかし、物語が進むにつれて、彼女の力には代償が伴うということが判明する。それは、気象を操ることに応じて身体が透明になっていき、最終的には消えてしまう、というものだ。やがて彼女は、帆高がずっと晴れであることを望んでいると知ると、東京の異常気象を完全に解決し、日本の夏らしい快晴をもたらすのと引き換えに、姿を消してしまう。

それに対して、帆高は陽菜を取り戻そうと決意する。陽菜がこの世界に戻ってくる、ということは、天候を晴れにしていた代償が失われ、東京が再び異常気象の雨に見舞われることを意味する。それでも彼の決意は揺らがず、東京中の人々が不幸になってでも彼女を選ぶのであった。

しかし、救出に向かう帆高の行く手を、拳銃所持の疑惑で彼を捜査していた警察が阻む。彼は大人たちの間を縫うように逃走し、鉄条網で頬を切り、殴られ、片手に手錠をかけられてしまう。それでも間一髪で鳥居の前にたどり着いた彼は、自らも祈りを捧げ、陽菜を天空の世界から連れ戻す。

地上に戻ってきた帆高は、拳銃の所持と使用で3年間の保護観察処分となり、島に戻されてしまい、二人は離れ離れになってしまう。3年後、自由になった帆高が再び東京にやってくる。東京は一日も止むことのない雨に見舞われ、そのほとんど水没してしまっていた。しかし、人々は陰鬱な雰囲気に包まれているものの、どこか諦観している様子だった。「もともと江戸は水の町だった」とか「そもそも世界はカオスから生まれたんだから、初めから狂っている」などと言って、異常気象に順応しながら生きようとしていた。

物語のクライマックスで、帆高は陽菜と再会する。そして陽菜に対して、「陽菜さん、僕たちは、大丈夫だ」と語りかける。そして、東京の異常気象を「もとの姿に戻った」といって諦観する人々に対して、「違う、僕たちはあの日、世界を変えたんだ」という独白をして、物語は終わる。

「僕たちは、大丈夫だ」──『天気の子』無責任論

おおざっぱに言えば、現在のところこの作品は、美術・音楽に対しては肯定的に評価され、物語に対しては否定的に評価される傾向にある。物語への否定的な評価として言及されるのは、新海監督が帆高に語らせる「僕たちは、大丈夫だ」というメッセージの安直さである。たとえば評論家の杉田俊介氏は次のようにこの作品を批判している。

「奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。」
「映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体」

杉田氏は帆高が語る「大丈夫だ」を「責任放棄の論理」として解釈している。率直に言って、少なくともこの作品の物語の内部に留まる限り、筆者はこの解釈に賛同できない。何故なら、「責任放棄」をしているのは、むしろ東京の異常気象を仕方なかったと言って諦観する大人たちであるからだ。そうした大人たちに対して帆高は「僕たちは世界を変えてしまったんだ」と語る。その限りにおいて帆高はむしろ自ら責任を引き受けようとしているのである。

同様の視点からなされた批判として、英文学者の河野真太郎氏によるものもある。彼は、この作品を「セカイ系」の反復として解釈し、次のように述べている。

「『天気の子』では、新宿の大人たち、警察、さらには最初、主人公の帆高(ほだか)を救う編集プロダクションの須賀圭介といった人物たちは、天気を変える能力を持つヒロイン・天野陽菜(ひな)を犠牲にして、自分たちの「社会」を救おうとする。帆高と陽菜の選択は、そのような「社会」を否定して「きみとぼく」の関係を生きることだ。

上記のような大人たちの「社会」は否定されるべきものとして表象される。もしくは、二人の問題に社会的解決はあり得ず、「きみとぼく」のつながりのみが、そして二人で手をつないで劣化していく日常を「大丈夫」と言って生きることが解決であることを確証するために、それは表象されている(社会を、主人公の個人が打ち倒す悪として表象する物語類型を、私は「シャカイ系」と名づけた。拙著『戦う姫、働く少女』を参照)。」
「『天気の子』主人公が「村上春樹訳のサリンジャー」を読んでいる理由」

筆者はこの解釈にも賛同できない。まず、作中で陽菜が大人たちから犠牲にされているようには思えない。大人と明確に対立するのは拳銃を所持している帆高だけである(この物語が気象操作と拳銃という二つの中心をもっており、それによって混乱が生じていることについては、後で述べる)。また、陽菜が自らを犠牲にするのは、帆高の願いを叶えるためであり、大人の願いを叶えるためではない。さらに帆高は、大人たちによってではなく、自分自身によって犠牲にされた陽菜を救出に向かうのである。その限りにおいてこの作品は主人公が大人を打倒する物語ではなく、むしろ自分自身の責任と格闘する物語として描かれている。

確かに、帆高と陽菜は身寄りのない子どもとして警察に保護され、その限りにおいて「きみとぼく」の関係が「社会」によって引き裂かれてはいる。しかし、一方で帆高と陽菜は気象の操作をベンチャービジネスとして展開し、顧客との社会的関係を築いてもいる。注目すべきなのは、そうしたビジネスによって帆高が世界に対する自分の影響力に気付いてしまうということだ。そうした影響力の大きさは、その世界を変えることに対する責任の大きさに比例する。帆高はビジネスを通じて世界に対して責任を引き受ける立場に置かれざるをえなくなるのである。そうであるとしたら、この作品の中心的な問題となっているのは、「社会」によって「きみとぼく」が引き裂かれることではなく、「きみとぼく」が「社会」に対して不可避な影響を与え、その責任と向き合わなければならなくなる、ということではないだろうか。

2度繰り返される「僕たちは世界を変えてしまった」

「僕たちは世界を変えてしまった」、でも、「僕たちは、大丈夫だ」。その二つが紛れもなくこの作品のテーゼである。特に、「僕たちは、大丈夫だ」については、RADWIMPSが同名の楽曲を制作していることも手伝ってか、この作品を象徴するキーワードのように見なされている。しかし、一方で、「僕たちは世界を変えてしまった」は物語の始まりと終わりで2度繰り返されており、その意味で特権的な扱いを受けている。「大丈夫」の意味は、「世界を変えてしまった」という確信との結びつきのなかでしか、解釈されえない。

前述の通り帆高は、異常気象に対して諦観する大人に対して、その異常気象を引き起こしたのが自分である、という確信を得る。そうであるとしたら、「大丈夫」とは、そうした自らの責任の自覚に向けられているはずだ。つまり、世界を変えてしまったのが僕たちであり、僕たちはその責任を引き受けるけれども、それでも大丈夫だ、ということだ。「大丈夫だ」は、責任がないことを保証するのではなく、責任を引き受けられることを保証しているのである。

しかし、そもそもなぜ、責任の主体であることをわざわざ「大丈夫」と肯定する必要があるのか。彼にそう言わせる問題の原因は、そうした肯定を必要とする不安は、どこに見いだされるのか。

答えは比較的明確だ。それは、責任を引き受けることが人々によって恐れられているからである。言い換えるなら、自分たちが世界を変えてしまう、自然にある状態に対して影響を与えてしまう、その力に対する不安があるからである。筆者はここに『天気の子』の批評性があると考えている。

ただしその不安は、子どもが大人になることへの不安ではない。何故なら、前述の通り、この作品のなかで大人はあくまでも責任を放棄する存在として描かれているからだ。責任の主体になることを妨げているのは、むしろ、極めて激しく責任を追求する私たちの社会にある。『天気の子』のプロデューサーを務めた川村元気氏はインタビューのなかで次のように語っている。

「ルールから外れたことを言うと袋だたきにあうような息苦しさが世の中に蔓延(まんえん)していて、ともすれば簡単に自分も批判するほうに回ってしまうことがある。そんな矛盾を抱えていることを僕自身嫌だなと思っていましたから、新海さんの話を聞いて『ああ、そこを突き抜ける物語をやるのかな』と。」
「新海誠と川村元気が「天気の子」を“当事者の映画”にした思考過程」

実際、物語のなかで帆高は何度か「Yahoo!」に相談を書き込んでいるが、それに対する返答の多くは彼を罵倒するものであり、共感的な意見は寄せられない。そしてそうした罵倒が返ってくることに対して帆高はほとんど何も感じない。そうした閉塞感は彼にとって慣れ親しんだものとして描かれている。

もしも、帆高と陽菜の行いが世間で暴露されたら──。その結末は想像に難くない。帆高は拳銃を発砲しているし、陽菜は東京に異常気象を起こしている。すぐに炎上し、二人は「袋だたき」に遭うに違いない。川村氏が指摘する通り、私たちはそうした「息苦しさ」が蔓延する社会に生きている。そして、そうした社会のあり方こそが責任の主体であることへの不安を喚起させるのである。この意味において、先行する批評にみられるような、大人=社会という等式は成り立たない。大人が責任を負わない一方で、社会は責任を追及するからである。

前述の杉田氏は、こうした社会の息苦しさについて、次のような分析を示している。

「地震も津波も異常気象もみんな自然であり、自然は狂ってしまった、だから仕方ない、でも大丈夫――『天気の子』の世界観は、そういう奇妙なロジックを持っている。デフレ経済下で99%の人間が平等に貧困化していく社会もまた自然現象であるのだし、あるいは新海監督が嫌悪感を露わにする「ネットという自然」(デジタルネイチャー)もまた、そのようなものである、とでもいうかのように(インタビューの発言によれば、新海監督はSNSに蔓延するポリティカル・コレクトネス的な「正しさ」の猛威を、ほとんどコントロール不可能な天候のようなものとして受け止めている)。」
「映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体」

この杉田氏の分析は慧眼であると言わざるをえない。前述の通り、大人たちは異常気象に対して諦めを抱いているが、その諦めは同様に、社会に対しても向けられているのである。ルールから外れたものの「袋だたき」とは、まさに「ネットという自然」における「正しさの猛威」に他ならない。大人たちはそうした息苦しい社会を変えようとする力を失い、むしろそれさえも一つの「自然」と見なし、そこに順応しようとしている。

したがって、帆高のいう「大丈夫」が責任の肯定であるとしたら、彼がそうした肯定を必要とする理由は、そうした励ましがなければ、責任を引き受けることがポリコレ的ネット社会の正義に封殺されるからだ。言い換えるなら、ポリコレ的ネット社会は人間から責任の主体になる可能性を奪っているのである。そしてその社会のあり方は、天気と同様に、人間には変えることができないと思われている。しかし──帆高と陽菜はその天気を変えることがある。そう繋げていくと、この作品に込められたメッセージが明らかになってくる。

社会の自然性の解体

「天気」とは自然の象徴である。その自然を帆高と陽菜は変化させる力をもつ。しかし、社会にはその力の発揮を許さない息苦しさがある。そうした社会の息苦しさもまた一つの自然的なものである。大人たちは、天気に対しても、社会の息苦しさに対しても、それを自然とみなして諦めている。それに対して、天気の自然性に抵抗しようとする帆高は、同時に、社会の息苦しさの自然性にも抵抗しようとするのだ。その意味において、この作品はその根底において「天気=世界=社会」という等式に支えられている。

そもそも「自然」とは何だろうか。第一に、自然性は無責任性を帯びている。たとえば「コップが自然に落ちた」という出来事について考えてみよう。その場合、たとえそのコップが人間の手から落ちたのだとしても、それはその人が落とそうと思って落ちたわけではない、ということが含意されている。「コップが自然に落ちた」とき、コップを落とした人にとって、コップを落とすことは避けられなかったし、そうである以上、その人は責任を負わない。このように、ある出来事が「自然」であると解釈することは、その出来事に対して誰かが責任を負うことを免れさせる、ということを意味する。

また、第二に、自然性は規範性をも帯びている。「あの学校が優勝するのは自然なことだ」といわれるとき、その「自然」が意味しているのは、その学校が優勝する「べき」であり、それが本来のあり方である、ということだ。反対に、そうした文脈で何かが「不自然」といわれるとき、それは反規範性を意味している。「あの学校が優勝するのは不自然だ」というとき、それはその学校が優勝するはずがなく、裏でなにかよくないことが起きている、ということが示唆されている。

自然という概念がもつこうした意味は、いわゆる草木や山海のような、自然環境だけに適用されるわけではない。私たちは、実際には人間が意図的に作り出し、その評価を問い直す余地がある出来事に対しても、それを自然と見なすことができる。それによって、その出来事は初めから避けられなかったものとして捉えられ、同時にそれが本来の姿であるかのように規範化される。そうした仕方で、何かを自然なものとみなすことは、自分自身から責任を免れさせ、その状況の維持を強化するのである。

『天気の子』において、3年後に東京に戻った帆高を待っていたのは、まさにそうした意味での社会の「自然化」だった。今ある社会を自然なものとみなすことで、大人たちは自分がその社会をもたらした責任を担わなくなる。しかし、それだけではない。社会の自然化は、現在の社会体制の維持・強化にも加担することになるのだ。言い換えるなら、いまある社会状況を改善しようとする態度そのものが否定されるのである。

それに対して、帆高は「僕たちは世界を変えてしまったんだ」と訴える。それは、いまある世界が自然にでき上がったということの否定に外ならない。そう考えることで、帆高は、自然化してさえいれば引き受けなくて済んでいた責任を、自ら引き受けることになる。しかし、だからこそ彼には、この世界を改善していくことができるし、この世界に対する評価を開かれたままにすることもできる。もちろんそれはすでに社会で決定されてしまった価値観からの逸脱を意味する。しかし、そんな逸脱をしたって「大丈夫だ」ということが、帆高の訴えなのだ。

『天気の子』は、この意味において、社会の自然性の解体を訴える作品である。この作品のテーマは環境問題などではない。また、社会変革へ向けた制度的手続きへの眼差しがないことも、問題にはならない。この作品が訴えようとしているのは、社会を変える方法の提案ではなく、あるいは社会を変えなくても「大丈夫」だということでもなく、なぜ人は社会を変えようと思えなくなっているのか、という問いかけなのである。もちろん、この作品がセカイ系の潮流に属することは疑いえない。しかし、そのカテゴリーをあまりにも図式的に適用している限り、こうした同作品のメッセージに気付くことはできないだろう。

いくつかの問題点──物語に紛れるノイズ

 ただし、もしもこの作品のテーマが以上のようなものだとしたら、そこにはいくつかの表現上の問題もある。

第一に、この作品の物語は二つの出来事によって進んでいく。一つは、帆高と陽菜による気象操作であり、もう一つは、帆高が拾った拳銃の行方である。両者はともに社会に影響を与えるものであり、帆高が陽菜を救出するシーンで重なり合うが、しかしそれぞれ別の問題である。天候操作は、東京都民の幸福に働きかけるという意味で社会とかかわるが、しかし、二人はそれを理由に警察に追われているわけではない。その意味で、ライムスター歌丸氏が指摘している通り、ストーリーラインが二つに分散され、焦点がややぶれてしまっている。

また第二に、帆高と陽菜の出自がまったく描かれていないことも、大きな疑問である。新海氏は、誰もが当事者として観ることができるように、という理由で二人の出自をあえて省略したという。しかし、出自が描かれないことによって、かえって二人の行動が意味不明に見えてしまっている。恐らく、観衆にはその分からない部分を自ら想像することが期待されているのだろうが、そうした想像力が喚起されるよりも、行動の不可解さがノイズになってしまっている。また、出自を描くことは当事者として観ることを必ずしも妨げない、ということも指摘されるべきだろう。人間は、違う時代の、違う国の物語であっても、あたかもそれが自分であるかのように感じることができる。そうした、文脈を飛躍させる力にこそ文化の価値があるのではないだろうか。

最後に、天空の世界の表象にも大きな疑問を感じた。鳥居や祠への祈祷はいい。しかし、空から落ちてくる魚や、天空を泳ぐ龍は、どのような意図でそうした形象が採用されているのか理解できない。「魚」と見なされているものは、そう説明されなければ魚には見えない。そもそも魚と龍がどこまでリアルなものなのかも曖昧だった。つまりそれが科学的に解明可能な自然現象なのか、それとも聖なる力をもった者だけに見えるスピリチュアルな現象なのか、分からなかった。そうした曖昧さがあえて意図されているのかも知れないが、そうした意図を楽しむよりも、製作者の側の混乱を感じざるをえなかった。

これらを考えると、完成度には大いに疑問があり、『天気の子』を傑作と呼ぶことは難しい。総合的に評価すれば『君の名は。』を超えるものではないだろう。それでも、少なくとも残念な作品などではないし、作品の意味について深く考察させる奥行や、社会に対して問いを投げかける力をもっている。何よりも、上映されている時間、観衆を物語の世界へと釘付けにする引力をもっていることは間違いない。筆者はそう評価したい。

 

【参考】

・杉田俊介「映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422

・河野真太郎「『天気の子』主人公が「村上春樹訳のサリンジャー」を読んでいる理由」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66548

・ライムスター歌丸「宇多丸、『天気の子』を語る!【映画評書き起こし 2019.7.26放送】」https://www.tbsradio.jp/394270

・新海誠・川村元気「新海誠と川村元気が「天気の子」を“当事者の映画”にした思考過程」https://eiga.com/news/20190803/1/