※この記事には『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の内容に関する言及があります。

(C)カラー (C)カラー/Project Eva. (C)カラー/EVA製作委員会

2021年3月『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下、「シンエヴァ」)が公開され、大きな話題を集めている。四半世紀にわたるエヴァンゲリオン・シリーズの完結編である本作は、公開初日の興行収入は8億277万4200円、観客動員数53万9623人を記録した。

作中にはエヴァらしい様々な謎が散りばめられており、ネット上では多くのファンが解釈を競っている。また、終盤で総監督を務めた庵野秀明氏の故郷が空撮されることから、この作品を庵野氏の「私小説」として読み解くファンも多い。

この記事では筆者の視点からシンエヴァのメッセージを解釈してみたい。ただし作中の謎解きや庵野氏の作家論を行うことは避けようと思う。また、シンエヴァをエヴァンゲリオン・シリーズそのものやそのファンを描いたメタな作品として解釈することもしない。もちろんそうした解釈を無意味なものとして退けたいわけではない。そうではなく、別の観点からシンエヴァを読み解くことで、本作のメッセージを筆者なりに再構成することが、この記事の狙いである。

なぜリメイクしたのか?

新世紀エヴァンゲリオンは1995年に放映が開始されたテレビアニメである。アニメシリーズの終了後に公開された劇場版によって物語は一応の完結をみた。これらの90年代のエヴァンゲリオンを以下では「旧シリーズ」と呼ぶ。その後、2000年代になってからリメイク作品として「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の公開が始まる。第1作「序」が2007年、第2作「破」が2009年、第3作「Q」が2012年に公開され、2021年に公開されたシンエヴァはその完結編に位置づけられる。これらのリメイクされたシリーズを総称して「新劇場版」と呼ぶことにしよう。

旧シリーズと新劇場版の間にはいくつかの大きな違いがある。そしてその違いは、旧シリーズから新劇場版がリメイクされなければならなかった理由、すなわち旧シリーズに残された課題と、それに対する新劇場版の応答を示唆している。それを明らかにするために、まずは、旧シリーズの概要を簡単に振り返っておこう。

主人公の碇シンジは、自分が傷つくことを怖れ、他者との関わりを極力避けている少年だ。ある日、彼は特務機関NERVへと呼び出され、「使徒」と呼ばれる謎の生命体と戦うために、汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンに搭乗することを命令される。彼にそう命令した人物こそ、NERVの司令官であり、長らく絶縁状態であったシンジの父・碇ゲンドウだった。

激しく葛藤しながらも、シンジはエヴァのパイロットになることを選ぶ。親代わりの葛城ミサトとともに新しい生活をはじめ、人間関係にも徐々に馴染んでいくが、度重なる苦難が彼を襲う。自分の乗るエヴァによって親友の鈴原トウジを傷つけ、戦闘の最中で綾波レイを失い、挙句の果てに唯一の理解者として現れた渚カヲルを自らの手で殺してしまう。他者と関わることが傷つくことでしかないと悟った彼は、誰とも関わらず、何もしないことを選び、心を閉ざしてしまう。

旧劇場版では、「人類補完計画」と呼ばれる世界の破滅の実現が、彼の内省に委ねられることになる。心を閉ざし、他者を拒絶するシンジは、その破滅をあと一歩のところで実現しそうになる。しかし、精神世界において問答を重ねるうちに、少しずつ彼の考えは変わっていく。

他者が存在しない世界には自分もいない。それは誰もいない世界に他ならない。彼は、自分がそうした世界を望んでいるわけではないということに気づく。そして、たとえ他者によって傷つく脅威があるのだとしても、そこに他者が存在する世界を望み、他者と共生することを決意する。彼がそのように決意することによって、世界の破滅は回避され、惣流・アスカ・ラングレーとともに生還を果たしたところで、物語は終わる。

新劇場版における変化

では、旧シリーズを新劇場版はどのようにリメイクしていったのだろうか。「序」のシナリオは旧シリーズの流れをほぼそのまま踏襲していたが、「破」において物語は大きく変化する。その最大の変化として現れるのが、シンジの主体性である。映画の終盤、使徒に取り込まれたレイを救出するために、シンジは「綾波を返せ」という言葉とともに、自らの意志で激しい死闘を繰り広げ、レイの救出に成功する。その姿は、旧シリーズのシンジとはまったく異なり、あくまでも積極的に他者と関わろうとするものとして描かれている。

しかし、レイの救出は「ニア・サードインパクト」と呼ばれる世界の破滅の引き金を引くことになる。それによって世界の大部分の生命が失われ、地球は人間の住めない死地と化してしまう。その14年後を描いた「Q」では、突如眠りから覚めたシンジが、変わり果てた世界に困惑する様が描き出される。

14年の歳月の間に多くの状況が変わってしまった。NERVから造反し、戦艦ヴンダーの館長としてWILLEと呼ばれる武装組織を率いるミサトは、かつての優しかった面影を失っている。シンジに対して「あなたもう何もしないで」と冷たく言い放ち、彼の首に自爆装置付きの首輪を装着する。その後、シンジはアスカと再会するが、彼女はろくに言葉を交わそうともせずに彼を殴ろうとする。14年の間に何があったのか、誰も彼に説明しようとはせず、まるで異物を見るような眼差しを向けるばかりである。

その後、シンジはヴンダーを強襲したNERVによって攫われる。そこで彼はレイと再会するが、彼女はシンジとの記憶を失っており、彼に対してまるで別人のように振る舞う。混乱の極みに陥ったシンジの前にカヲルが現れる。カヲルはシンジに14年前に起こったニア・サードインパクトの真相を語り、その原因がシンジによるレイの救出にあったこと、つまり世界の破滅の引き金を引いたのがシンジであること、そして首輪がその「罰」の象徴であると説明する。

シンジは自らの責任に押しつぶされそうになる。その姿を見かねたカヲルは、シンジの首輪を取り外し、自分の首に移し替え、シンジに優しい慰めの言葉をかける。シンジは自分がカヲルに理解され、許されたのだと感じ、解放的な気持ちになる。そして、カヲルととともにエヴァンゲリオン13号機に搭乗し、半ば妄想に駆られて世界を元に戻そうとする。

しかしその行動は裏目に出る。シンジはゲンドウの陰謀にはまってさらなる世界の破滅を引き起こしそうになる。カヲルはそれを阻止するが、その引き換えに首輪が爆発し、シンジの目の前で絶命する。唯一の理解者であったカヲルを失ったシンジは精神崩壊に追いやられる。

生きる気力を失い、ただうなだれるだけのシンジの前に、アスカが現れる。そして、レイのクローンを伴いながら、3人はどこまでも広がる廃墟を歩いていく――そこで、「Q」は幕を閉じる。

「承認」から「責任」へ

旧シリーズと新劇場版の違いを整理してみよう。

旧シリーズの物語は、①他者を拒絶するシンジが、②何も行為しないことによって世界が破滅の危機に直面する、という形で進行する。それに対して新劇場版では、①他者と関わろうとするシンジが、②他者のために行為することで世界が破滅する。そして彼は、そのように自分が世界を破滅させた責任に押しつぶされ、自我の崩壊にまで追いやられる。①と②はそれぞれ旧シリーズと新劇場版とで綺麗に反転していることが分かる。

それは、他者と関わることの意味そのものの反転を示唆している。旧シリーズにおいて、それは世界の破滅の回避と同義であり、一つのゴールだった。他者と共生したいと思えることこそが、シンジの到達点であり、結論だった。しかし新劇場版はそうした考え方を生易しいものとして一蹴している。なぜならそこでシンジは、他者と関わろうとしたために世界を破滅させ、他者の人生を決定的に変えることになり、そしてその重みに押しつぶされるからである。そのようにして新劇場版は旧シリーズにおける救済を世界の破滅に置き換える。

旧シリーズにおいて、シンジは他者からの承認に苦しんでいた。しかし、新シリーズにおいて彼が苦悶しているのは、他者への責任に他ならない。他者と関わることは他者の人生を変えてしまう。そしてそれは、他者をまったく違う人間に変えてしまうことでもある。優しかったミサトが冷酷になり、互いを想い合っていたはずのレイが記憶を失ってしまったように。そしてその責任が、およそ取り切れないと思われる責任が、シンジに重くのしかかってくるのである。

その苦悩に逃げ道はない。自分の行為を最初からなかったことにし、その行為が行われる前の状態に戻すことはできない。また自分の責任を他者に代替させ、自分だけが責任から解放されることも不可能である。そうしたことをしようとすれば、もっと悪い、もっと悲惨な事態に陥ることになる。シンジがカヲルを失ったように。

新劇場版は旧シリーズの結論を出発点に置き直している。シンジが絶望から救済されるとしたら、それは彼が、他者を変えてしまう責任を引き受けながら、それでも他者との共生を肯定できるような、そうした道を見つけることだけである。そしてシンエヴァは、筆者の見る限り、そうした道を誠実に模索し、表現することを試みたように思える。

責任の曖昧さ

ただし、だからといってシンエヴァは、とにかく他者への責任を引き受けよう、という安易な答えに行き着くわけではない。むしろそこで表現されているのは、他者への責任が普通に考えられているよりもずっと曖昧なものであり、それに対して簡単に判断を下せるようなものではない、ということだ。

シンエヴァの冒頭、シンジはまったくの無気力に陥っている。アスカに連れられ、レイのクローンとともに、ニア・サードインパクトを生き残った人々が暮らす村落共同体で保護された彼は、そこでかつての同級生だった相田ケンスケやトウジと出会う。アスカやレイのクローンの助けもあって、徐々に心を開き、立ち直り始めたシンジは、ケンスケやトウジの仕事を手伝い、そこで14年前の破局の様子や、その後の世界がどうなっていたのかを聞く。そして、トウジが自分だけ生き残ってしまったことへの落とし前をつけるために医者の役を果たしていること、ミサトが罪責感からWILLEを率いていることを知る。

一方、レイのクローンはNERVでしか生存できないため、ある日限界を迎えて絶命してしまう。彼女の死に衝撃を受けたシンジは、自分のしたことに落とし前をつけるために、ヴンダーに搭乗することを決意する。時を同じくして、ゲンドウ率いるNERVが人類補完計画の発動に向けた最終行動を起こしていることが明らかになり、ヴンダーはこれを阻止するために決戦に赴く。

かつてセカンドインパクトが引き起こされた爆心地で対峙するNERVとWILLE。決戦の火ぶたは切って落とされ、前半の和やかな農村での描写から一転、激しい戦闘シーンが続く。真希波・マリ・イラストリアスとアスカはそれぞれエヴァで出撃し、人類補完計画を阻止しようとするが、冬月コウゾウの迎撃に敗れ去る。ヴンダーはNERVの戦艦の突撃を受け、乗り込んだゲンドウによって保有していたエヴァ初号機を強奪される。

途方に暮れるミサトの前にシンジが現れる。彼は、ミサトが抱える責任を半分負うと言い、自分がエヴァに乗り込んでゲンドウを止めると宣言する。しかし、そのシンジに対して、WILLEの構成員である北上ミドリと鈴原サクラが銃口を向ける。ミドリはニア・サードインパクトで家族を失っており、シンジに激しい私怨を抱いていた。一方のサクラは、エヴァに乗ることで世界を破滅へと至らしめたシンジに深い同情を寄せており、二度とエヴァに乗ってほしくないと願っている。

サクラは、シンジが銃傷を得ればエヴァに乗らずに済むと考え、彼の四肢をめがけて引き金を引く。しかし、ミサトがシンジをかばって自らの身体に銃撃を受ける。そしてミドリとサクラに対して、シンジが自分の管轄下にあり、彼に作戦を託す責任は自分にあると語り、二人を引き下がらせる。

ここに至って責任の問題は複雑さを極める。というよりもそこで繰り広げられているのは、一体誰が、どこまで、何の責任を負っているのか、到底理解できなくなるような状況である。

シンジはミサトの責任を半分引き受けようとする。しかしそのミサトは、シンジの行動のすべての責任を自分が負うと言う。もはや「Q」において描かれていたように、自分が起こしたことに自分ひとりで責任を負うという、単純な責任の構造はそこにはない。責任を負うことさえもが、他者との関わりなしには不可能なものとして描かれているのである。

それだけではない。そこには、シンジが責任を負うことを許さない他者もまた描かれる。責任を負うからといって、それが手放しに称賛されるわけではない。ある場合には、責任なんか負わないでほしい、もう関わらないでほしいと言ってくる他者もいる。ミドリとサクラはそうした他者として描かれる。しかし、その二人の言い分もまた同じではない。責任の拒絶にも多様性がある。シンエヴァでは、責任の問題がそれほどまでに複雑に、一筋縄ではいかないものとして捉えられているのだ。

評論家の岡田斗司夫は、シンエヴァに「99点」をつけながら、このシーンをマイナス1点とし、「サブキャラがどうでもいいことを叫ぶ」「火曜サスペンス」と評する。しかし筆者はそれにまったく賛同することができない。むしろこの場面こそがシンエヴァに深みと重みを与えているように思えてならない。

「僕のことはいい」

人類補完計画はエヴァンゲリオンを動員した「儀式」によって成就する。その儀式の中心はマイナス宇宙となり、人間には知覚できない空間と化していた。シンジはそのなかに入り込み、精神世界のなかでゲンドウと対峙し、最後の戦いを挑む。シンジを苦も無く圧倒できると考えていたゲンドウだったが、彼に詰め寄られるにつれて、自分が彼を怖れていることに気づく。そしてゲンドウは、今まで目をそらしてきた自分の心の弱さを直視し、自分の誤りを自覚していく。

結局のところゲンドウにとって人類補完計画とは、失った妻・碇ユイと再会を果たすためのプロジェクトだった。幼い頃から孤独を抱えていきてきたゲンドウは、ユイと出会うことで、初めて人と触れ合うことの温かさを知った。しかしある日、彼女を失うことによって、孤独は初めて耐えがたい苦しみとなって彼を襲った。その苦しみから逃れるために彼は全人類を巻き込んで世界を破滅させようとした。

シンジの言葉によって自分の過ちを自覚したゲンドウは、人類補完計画への意志を失い、精神世界から退場していく。その後、姿を現したカヲルに「君は何を望むんだい」と問われたシンジは、「僕のことはいい」と答え、自分以外の登場人物たちの救済を優先する。アスカ、カヲル、レイが、それぞれに押し殺していた苦しみを直視し、そしてそこから解放されていく。

シンジが人類補完計画の脅威から人類を救済する、というシナリオは、旧シリーズと新劇場版で共通している。しかしその描かれ方はまったく異なる。旧シリーズではシンジの内的な葛藤によって、その半ば孤独な決断によって、救済が実現された。その表現が狙っていたのは、観客をシンジに共感させ、両者を同一化することであった。それに対して新劇場版ではシンジ自身の葛藤はほとんどまったく描かれない。まるでシンジの気持ちはどうでもいいとでも言うかのようである。それに対して、ゲンドウ、アスカ、カヲル、レイといった、彼の周囲にいる他者たちの内的な葛藤の方が強調されて描かれる。そうした他者たちがそれぞれ自分の道を見つけていくことで、救済は成就するのである。

そしてシンジは、ニア・サードインパクトによって奪われてしまった生命の多様性を復元するために、自らの命を差し出そうとする。すると、彼の背後からユイが現れ、シンジを現実の世界へと押し戻し、彼の代わりに自分を犠牲にする。このシーンは旧劇場版のラストシーンと同じ構図で描かれるが、その結末はまったく反対になっている。旧劇場版のユイは永遠の生命となって生き続けるが、シンエヴァにおいて彼女は死ぬからである。

現実へと押し戻されていくシンジの前に、マリが姿を現し、すべてのエヴァンゲリオンが消滅していく。場面が切り替わり、山口県宇部新川駅のホームで、大人になったシンジとマリが待ち合わせている。そして、二人が勢いよく階段を駆け上がっていき、この物語は終わる。

ネオン・ジェネシスとは何か 

評論家の宇野常寛はシンエヴァについて次のような辛辣な評を寄せている。

「かつて僕はこう述べたことがある。『エヴァンゲリオン』には個人の内面しかなく、『シン・ゴジラ』には社会の構造しかない。しかし、本当にいま描かれるべきは両者を架橋する物語なのではないか。個人と社会をつなぐ新しい回路の提示なのではないか、と。それが『シン・ゴジラ』の限界――現実に対して「気の利いたアイロニーをぶつけること」しかできないという限界――を超えるために必要だったはずだ。しかし『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』には真摯だが類型化された陳腐な内面語りしかなかった。『シン・ゴジラ』に気の利いたアイロニーしかなかったように。そして『シン・エヴァンゲリオン』には過去しかなく、『シン・ゴジラ』には現在しかない。」

筆者はこうした解釈に首肯できない。少なくとも筆者の目から眺めれば、シンエヴァは過去への憧憬を描いた作品ではないし、またそこには「陳腐な内面語り」もない。むしろこの作品で描かれているのは、過去をやり直したいという願いへの徹底的な拒否ではないだろうか。

前述の通りゲンドウは、ユイの死を否定し、再び彼女と一つになることを願ったために、人類補完計画に着手した。シンジはその計画を阻止したわけだが、しかし彼自身もまた、過去への執着から無縁だったわけではない。「Q」においてシンジは世界を14年前に戻そうとし、失敗してさらなる苦悩に突き落とされたのだった。世界をやり直したい、という願いは、人間を不幸にする。それがこの作品を貫くテーゼである。

世界をやり直せる、ということは、ある出来事が起きたとしても、自分にとって都合が悪ければそれをなかったことにできる、ということでもある。それは自分の責任をなかったことにすること、無責任であることを望むことである。この作品はそれでは世界が救われないと訴えている。しかし、それはなぜなのだろうか。

少し補助線を引いて考えてみたい。世界を何度でもやり直せる、ということは、何が世界の最終的な状態であるかを、自分が決定することができる、ということである。そのとき世界は「私」の外部ではなく、「私」の意志に依存したもの、「私」を超えないものに過ぎなくなる。したがってそこには「私」の予測を超えるものもまた存在しえない。

「私」の予測を超えるものとは、「私」にとって新しいものである。その意味において、何度でもやり直される世界には、予測不可能なもの、新しいものが到来しえない。言い換えるなら、新しいものがこの世界に現れるためには、この世界が私たちの意のままにならないもの、一度起こったことは二度となかったことにはならないということ、そして起きたことに対して責任が課せられる、ということが受け入れられなければならないのだ。

レイを救済しようとするシンジは、彼女に対して、自分はもう時間も世界も戻さない、ただエヴァのいない世界に書き変える、と告げる。レイはそれを「新たな世界の創成、ネオン・ジェネシス」と表現する。それに対してシンジは、「うん、やってみるよ、ネオン・ジェネシス」と応答する。

筆者にはそれがこの作品の答えであるように思える。私たちはなぜ大きな責任を負うにも関わらず他者と関わらなければならないのか。なぜなら、そうすることでしか、この世界を新たなものにすることができないからだ。その意味において、シンジが引き受ける他者への責任とは、償いの責任ではなく、未来への責任なのである。

一人ひとりのネオン・ジェネシス

他者に関わることは他者を変えることである。私たちが誰かを好きになり、その誰かを関わろうとすれば、それによって相手を変えてしまったり、傷つけたり、場合によっては失ってしまう。そうした事態に陥ったとき、私たちは苦悩に苛まれるし、そんなことだったら最初から他者と関わらなければよかった、一人で生きればよかった、と思うかも知れない。

しかし、そうした世界にも希望はある。それはこの世界に、新しいもの、予測もできないものがやってくる、ということだ。他者への責任に応えることは、新しいものがやってくる未来を守ることでもある。トウジが小さな赤子を守るために医者になり、ミサトが息子のために特攻し、そしてシンジが自分の周りの人々の新たな人生のために命を捧げたように。そしてユイが、そのシンジを新しい未来へとそっと後押ししたように。

旧シリーズと新劇場版は、結論だけを抽出すれば、よく似ている。自分の世界に閉じこもるのはやめよう。外に出て、他者と関わろう。しかし新劇場版はそこに次のようなメッセージを付け加えている。すなわち、他者と関わることは責任を伴うということ、けれどそれは悪いことばかりではないこと、責任を負うからこそ新しいものとも出会えるということ、である。

社会学者の貞包英之は、シンエヴァが「わかりやすい結論」に落ち着いてしまい、「ニセの答えを与えることで、ポストバブルの日本が向き合うべき課題を塞いでしまった」と評する。しかし、シンエヴァによって批判される当のものこそ、私たちの社会が目下直面している課題なのではないか。たとえば東京オリンピックをめぐる動向に示唆されるように、私たちの社会の奥底には過去をやり直したいという苛烈な欲望が潜んでいて、それが新しい風を呼び込むことを妨げているように思える。そうした閉塞感を乗り越えるための手がかりを、この作品は私たちに語りかけているのではないだろうか。

(参考)

宇野常寛「「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」についての雑感(今日における虚構の価値について)」note、2021年3月9日、https://note.com/wakusei2nduno/n/n2fd22e066c8d

岡田斗司夫「シン・エヴァ完全解説〜ネタバレなし&有りのダブル解説〜観る前と観た後で10倍面白くなります! 岡田斗司夫ゼミ#386​(2021.3.14) / OTAKING Seminar #386」YouTube、2021年3月20日、https://www.youtube.com/watch?v=ORRK3xESl3I

貞包英之「結局、『シン・エヴァ劇場版』は何を終わらせられなかったのか」『現代ビジネス』、2021年3月25日、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81325?imp=0