SFは未来を「予測」するのに役に立つ文学なのだ、と科学的技法による未来予測の分析と評価を身上とする未来学(Futurology)は言った。なるほど、SFが描く未来にわたしたちは間違いなく魅惑されてきた。東京の都市のビル群を計算資源として活用される青々とした植物たちが覆い繁茂する。植物たちと人間が言葉の向こうでコミュニケーションを交わそうとする津久井五月『コルヌトピア』(2017年)。資本主義の加速により一部企業が食の自由さえ奪い取り機械技術に代わり生体操作技術により生み出された労働する獣の匂いと絶望の立ち込めるパオロ・バチガルピ『ねじまき少女』(2010年)。頁を進めるたびにありえるかもしれない未来が迫ってくる。

同時に戸惑いを覚える。グレアム・プリースト『逆転世界』(1974年)。中世のギルドを模した集団たちが都市を移動させ続けるために働きすべてが逆転するという世界は何を予測している? ストルガツキー兄弟『ストーカー』(1972年)。異星人が残した不可解で強大な力を持つオブジェクトを拾い集める死と隣り合わせの乾いた生を生きる〈ストーカー〉たちは何を予測している? H・G・ウェルズ『宇宙戦争』(1898年)は火星人の襲来によりロンドンのパニックケーススタディを未来予測する?

予測は外挿(extrapolation)である。外挿とはSF研究者ダーコ・スーヴィンの言うところ「物語の核に具現化された認識的仮説を出発点とし、その仮説を直接未来に投影するもの」。現在の情報、材料、技術、価値観を未来にまっすぐに伸ばしていく。いま車が走っているからさらに速い車が走っているだろう。いま個人が車を買わないからシェアリングエコノミーに移行するだろう、いまの自動運転技術が精緻化されるだろう。
外挿としての予測は時折SFだと言われる(実際数少ないSF研究誌のひとつ Extrapolation はその名にちなんでいる)。外挿はSFのすべてだろうか? 『逆転世界』『ストーカー』『宇宙戦争』は外挿の文学か? 明確にNOだ。

一つ目のNOの理由。予測が当たっているかどうかはSF作品の中心的な価値づけの理由にはならないから。わたしたちはSFの予測の正誤に一喜一憂したりするだろうか? 宣託を読もうとハヤカワ文庫や創元SF文庫を開いただろうか? SFは未来を当てに行ってはいない。『コルヌトピア』『ねじまき少女』にせよ。外れていてもわたしはどちらもSFとして楽しみ価値を見出すから。もしSFが予測の文学だとしたらSFを評価する前にわたしたちは死んでしまう(i.e. 『宇宙戦争』の答え合わせを待つには火星人の襲来をいつまで待てばいい?)。別の価値を求めてわたしたちがSFに手をのばすことを後で言おう。

もうひとつの理由は、SFが外挿の文学だとしたら、これほどおもしろいはずがないから。イスラエルのSF研究者ヌデルマンは言う。未来学における未来予測は「線型的な外挿によって達成される」。未来予測の名の下にプロトタイプされるいくつものシナリオは「まず第一に〔現在の〕イデオロギー的、政治的、社会的秩序に対する答えであり「科学的な予測」ではな」く現在の既定路線をなぞった価値含みの未来であり予測の「「客観性」と「科学的性格」はもっぱら神話である」。客観性の装いのもとに既存の価値を変えることなく気分のいい未来を気分のいい絶望を描ける点に未来予想の人気がある。「その見せかけは技術主義的で危険なものである。効果的に個人と大衆を操作するために科学を使用している現代の資本主義と社会主義の社会では、未来学はそのような操作のためのツールの一つに過ぎず、選択の自由を防ぐためのものである。それは、現実の知識の代わりに希望に満ちた予測を行い、選択の自由のためには限られた数の「科学的」予測を行い、そして、本当の知識を科学的宿命論にすり替える」。SFがこれに尽くされていたなら、誰が読みたがるだろう? 誰が書きたがっただろう?

SFは外挿ではない(むろんある時期のSFがそのように理解されていたという歴史的概念として尊重されるべきではある)。SFが未来と本質的に関わっているのは間違いない。『逆転世界』や『ストーカー』はいかにして未来と関わるのか? わたしたちがそれを求めて読むはずのSFと未来の美的な戯れとは何か?

SFは予測(prediction)ではない。パラディクション(paradiction)だ。前もって言わない。多岐する世界を言いまくる。SFと未来との付き合いは深い。SFは未来なんか知らない。SFは未来を知らずに語ろうとする。SFは希望と絶望を語る。希望と絶望はつねに真剣な嘘だ。SFは真剣な嘘をつく。SFは様々なイデオロギーの意匠を纏う。ときにそれは古臭くぼやけたものにさえ見える。おしゃれは衣装を眺め過ぎてはいけない。それを着ようと思ったあえかな意志がおしゃれの本質だから。SFのガジェットを愛しすぎてはいけない。ガジェットの温度を、手触りの向こうの希望と絶望に触れようとすること。SFの意匠の向こうに未来を描こうとする希望と絶望が見えるか? 嘘の向こうの真正な意志を知っていたか?

『逆転世界』は労働疎外のユートピア。人々はフランシス・デステインなる者の残した生活のルールブック『指導書』に従い都市を動かす。都市の行き先を測る〈未来測量士〉、レールを敷き、牽引し、橋を架ける〈軌道建設〉〈牽引〉〈架橋〉、何かのまじないか、男児の出生率が異様に高いために、女たちはつねに少なく都市のために周囲の村落に住む女たちを医療品や食料と引き換えに「調達」し、肉体労働者を雇用し、反乱を防ぐための〈交易〉〈民兵〉ギルド。ギルドの中核は不思議に男たちだけからなり、都市の運行の理由は女と子どもたちには知らされない(にも関わらず男たちのユートピアを暴くのは内部と外部の女たちである)。男たちは父親から自分たちのギルドを受け取り労働を楽しむがつねに外部のより貧しい労働者たちから搾取を行い続けてもいる。男たちの労働とごっこへのイデオロギーと虚偽とユートピア的夢想。秘密基地のような移動する都市、ギルド、定められた労働、ルールの隠匿のガジェットがそれらと絡まり続ける(逆転する世界の理由も)。

SFのガジェットには時代の匂いが染み付いている。ここにこだわろう。ウェルズの『タイムマシン』には19世紀末期に登場し始めたシネマ的想像力が援用される。座ってレバーを引くと飛び去って早送り / 逆再生がなされていく時間の流れのイマージュ。伊藤計劃『虐殺器官』には、コミュニケーションメディアと憎悪の動員が選ばれる。テロリズムとの出口のない戦いとテクノロジーによってマスクされ、テクノロジーによって操作される感情。

SFは現在の想像力をコラージュして未来を描こうとする。外延の延長がパズルブロックの組み立てであることに対置される。未来のものを現在の材料で作ろうとする矛盾の中であがく。あらかじめ失敗を余儀なくされる営み。

SFならではの未来。それは何もかも間違っている未来。間違っていることに何の問題もない。現在から見て正しい未来など死んだ未来に過ぎない。生きている未来はわたしたちからは見えない。

SFが未来予測できないとは言わない。できる。できたとしてそれは規定されたシナリオの描く外挿の未来に終わる。それはきっと到来する未来。与えられた未来。それらを語ることをわたしたちはSFと呼びたいか? わたしはNOだ。あなたはどうか? SFは間違った未来を描く。だから、生きている未来を描く。これをSFと呼びたいか? YESだ。

使うガジェットに現在の刻印が刻まれているだけではなく、SFは根源的に現在を描きたい。SFは未来を使って現在の特異性を露わにする。

「羊は非常におとなしく、また非常に小食だということになっておりますが、今や[聞くところによると]大食で乱暴になり始め、人間さえも食らい、畑、住居、都会を荒廃、破滅するほどです。この王国で特に良質の、したがってより高価な羊毛ができる地方ではどこでも、貴族、ジェントルマン、そしてこれ(怠惰とぜいたく)以外の点では、聖人であらせられる何人かの修道院長さえもが、彼らの先代当時の土地収益や年収入だけでは満足せず、また無為、優雅に暮らしても公共のために役立つことは皆無、いな、有害になるのでなければ飽き足りません。つまり残る耕作地を皆無にし、すべてを牧草地として囲い込み、住家をこわし、町を破壊し、羊小屋にする教会だけしか残しません。さらに、大庭園や猟場をつくるだけであなた方の国土がまだ痛み足りなかったかのように、こういうえらいかたがたはすべての宅地と耕地を荒れ野にしてしまいます」(澤田昭夫訳)と当時の囲い込み政策を鏡写しにしたトマス・モア『ユートピア』(1516年)、常に市民を監視しプロパガンダを垂れ流し続ける「テレスクリーン」思考の限界を削減していく「ニュー・スピーク」により、戯画化された社会主義独裁国家を描くジョージ・オーウェル『1984年』(1949年)。

未来の世界は現在の隠喩になる。ロミオがジュリエットを太陽として隠喩するのは太陽の表象で彼女の性質を際立たせる身振りである。SFの未来は太陽になる。未来の表象は現在の経済・社会・不平等・不正義を縁取る隠喩の身振りになる。羊は資本の怪物となる。テレスクリーンは見ることの権力を実装する。

スーヴィンは外挿としてのSF説を否定する。「未来予知物語をふくむすべてのSFは、やはり、それが作者の現在にアナロジーを介して差し戻されるところに、まさに認識的価値が認められる」。SFは見かけ上未来の文学で、根源的に現在の文学だ。現在にしか存在し得ない未来志向のガジェットを使って、未来を隠喩として現在を表現する。未来との生真面目な戯れに、SFの存在論的ギャップと認識論的賭けがある。

『ストーカー』は享楽=快楽の誤翻訳の物語。尽きることのないエネルギーをもたらす〈電池〉、すべてを叶えるという金色の〈玉〉、プラスティックや鉄にさえ浸透し染み出し、触れた者を〈ジュリー〉に変えるという〈魔女のジュリー〉—-人類の願望を叶えたかと思えば、無残に裏切ったりする謎めいた異星人のオブジェクトが散らばった立入禁止の〈ゾーン〉。ゾーンの未知のオブジェクトたちによってスクラップのように命が刈り取られる死の危険とともにこそこそと残骸を集める〈ストーカー〉は異星人=コミュニケーション不可能な対象の享楽を完全に誤解して享楽する、とフレドリック・ジェイムソンは言う。資本主義のガジェットたちは、ゾーンのオブジェクトたちによく似ている。この願望は、誰のものなのか? SFの未来に予測はなく、絶望によく似た希望と、現実を見つめてくる世界がある。

SFは現在を想像し変革するために未来を語る。未来予測とSFの読み書きは決定的に異なる営みとなる。SFは現在を描き続ける。SFはパラディクトする。生きている未来は現在の隠された可能性に光を当てることでしか呼びさませない。現在のシリアルナンバーが刻まれたガジェットが組み上げた間違った未来の隠喩の光を手がかりにわたしたちは現在の足元を照らす。暗闇を進む。

参考文献

  • Elkins, C. 1979. Science Fiction versus Futurology: Dramatic versus Rational Models. Science Fiction Studies, 6(1), 20-31.
  • Nudelman, R. 1979. On SF and Futurology. Science Fiction Studies, 6(2), 241-242.
  • Suvin, D. 2016/1979. Metamorphoses of science fiction: On the poetics and history of a literary genre. ed. Canavan, G. Peter Lang. (スーヴィン, ダーコ. 1991. 『SFの変容––––ある文学ジャンルの詩学と歴史』大橋洋一[訳]国文社)
  • Jameson, F. 2005. Archaeologies of the future: The desire called utopia and other science fictions. Verso.(ジェイムソン, フレドリック. 2011. 『未来の考古学––––第一部 ユートピアという名の欲望』秦邦生[訳]作品社)

プロフィール

難波優輝。1994年生まれ。SF研究者・美学者。専門は分析美学とポピュラー文化。主な論考に「バーチャルYouTuberの三つの身体――パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』、草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズ』(早川書房)に寄せた解説「キャラクタの前で」など。

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