20世紀現代音楽シーンで活躍したイタリア出身の指揮者/作曲家ブルーノ・マデルナは、『そして、その後(Y despues)』というギター独奏曲を残した。
この曲は詩が添えられたいくつかのパッセージを奏者の解釈により並び替えて演奏するという指示があるのだが、どの断片も人間の侵入を拒むような深い孤独を湛えている。しかしながら、その情景を音楽として浮上させるのは、この曲のスコアと対峙し、アレンジし、実際に演奏する奏者という人間に他ならない。
それは音楽として聴衆に認知され、この世のどんな人間も存在し得ない空間が、奏者と聴衆の双方からアプローチされることによりその存在が承認されることで孤独のなかにごろりと横たわる「たしかなもの」の手触りを得ることができる──

第160回芥川龍之介賞を受賞した上田岳弘はデビュー以降一貫してそのような「そして、その後の風景」を描き続けてきたように感じる。デビュー作である『太陽』やはじめて芥川賞にノミネートされた『惑星』では、超弩級とでもいうべき想像力を駆使して野性的に人間の認知領域を押し広げ、ミシェル・ウェルベックを彷彿させる人間が消失した世界への回路を力技で開拓してみせた。
キャリアの飛躍作となった三島由紀夫賞を受賞した『私の恋人』では時空を超えた統一的自我としての「私」を設計することで過去と現在(あるいは過去からみた未来)の往復運動の顕在化に成功し、小説という散文表現ならではの風景を越境的なかたちで提示してみせた。

僕の作品って毎度同じモチーフが共通して出てくる。『また同じかよ』と思われるかもしれないけど、僕の中では一作一作深化している。使い慣れてるというか、前に出したモチーフをさらに深めていくとどういうことになるんだろうと常に考えてつくっているので、ある意味、手際の良さと映ったんだと思います。
(受賞会見より)

受賞会見でこう述べているように、上田岳弘は一貫した作品系譜を持った作家である。そして受賞作『ニムロッド』にもこれまで実作のなかで用いられたモチーフの断片がみられ、そしてスケールの大きな想像力を駆使してそれらを統合した手つきが見られる。

「テクノロジー」と「文学」を巡って

デビューして1、2作目は、『自分がどれだけ速い球を投げられるのかな』という興味で書いていた。だんだん作品を重ねていくごとに、もっと広く読んでもらいたいと考えながら、とはいえ、読みやすいといっても、芸術性といったらおこがましいんですけど、深い部分が浅くなってしまうのは違うなと毎回、試行錯誤している。
(受賞会見より)

キャリア初期は「ポストヒューマン」的存在を基盤とした作品を発表していた上田岳弘だが、徐々に強力な想像力のみで作品を牽引するのではなく、『ニムロッド』では仮想通貨を題材としたように、徐々に現実の情報科学をベースとした作風へと軟着陸していった。上に引用した受賞会見のコメントを参照すると、上田岳弘自身、自覚的にこのような変化を行なっていると見られるだろう。

上田作品の超越的な認知・語りについて、テクノロジーとの高い親和性は、人間拡張(Human Augmentation)の研究者・暦本純一との対談で具体的に言及されている。
暦本の専門であるAR技術は、現実世界を土台とした世界のなかに、テクノロジーを用いて新たな認知を付与するものだ。「仮想的な空間」を構築するVR(仮想現実)とのちがいは現実を土台とするか否かにあり、ARには現実世界へと向かう想像力を補強するという特徴がある。これにより健康なひとに高齢者やハンディキャップを持ったひとの身体を疑似体験させるといった「憑依」や、遠隔地の会議への出席など「存在の転写」といったことが可能だとみられている。暦本が発表した「カメレオンマスク」は、AR技術による「憑依」と「存在の転写」を試みたものだ。

「カメレオンマスク」じたい、技術的にはきわめてシンプルだ。
マスクにはひとの顔を映し出すディスプレイや、遠隔地と通信するためのカメラやマイクが取り付けられている「だけ」だが、これを使うことで、マスクをした人物は「別のだれか」として振る舞い、同時に遠くにいる「わたし」がマスクをした人物に「憑依」する。
上田の「なぜこの技術を開発しようとおもったのか」という質問に対し、暦本は以下のように答えている。

暦本 離れた場所にいる人を、あたかも今ここにいるかのように見せる技術の研究開発が近年進んでいます。これを「遠隔の」を意味する接頭辞の「テレ」と、「存在」を意味する「プレゼンス」を組み合わせて、「テレプレゼンス」と呼んでいます。多くの研究はこれまで遠隔操作ロボットを使って、テレプレゼンスを実現していました。ところが、遠隔地の人の意志に従って動いているとしても、見た目がロボットだと、どうしても違和感が生まれるし能力にも制限がある。そこで、われわれは遠方にいる人に代理役を担ってもらえば、ある場所から別の場所へ、身体のみならず社会的な存在感を移すことができるのではないかと考えたんです。

AIとARの拡張現実時代に「私たちはどう生きるか?」上田岳弘×暦本純一「AIとAR時代の文学」(前編)

「カメレオンマスク」はある種の「見間違い」を誘発させることでテレプレゼンスを可能にしている。人間の代わりにロボットをおくのと決定的に違うのは「ここに人間がいる」という事実であり、この人間A’を遠くにいるAという人間に錯覚させることで、存在を遠隔地から転写できているということだろう。肉体と人格の分離、そしてその持ち運びについては、ニューロマンサーや攻殻機動隊などのSF作品で頻繁に扱われてきたものだが、テレプレゼンスはそれに近い現象を引き起こす。この議論をめぐって上田氏は「どこまでが自己で、どこからが他者か。その境界を編集できるということですね」と言及し、暦本はそれに同意している。

こうした「見間違い」などのような認知操作によって「いないはずのものがここに存在している」という現象を引き起こすことは、日本の文学シーンでも技術としてしばしば使われている。それが「移人称」と呼ばれる技法だ。
移人称では、小説の語りが一人称から三人称・二人称へ移り、またその逆のことも起こるといった叙述形式とされているが、これは従来的な小説作法から考えればタブーとされるものだった。人称が浮遊することにより、自分自身の背中であったり、他人の人生記や遥か未来の出来事など、語り手にとって「見えない/感じえないこと」を次々と語り出してしまうのだが、この「ありえない現象」を書くことにより、リアリティが著しく損なわれる恐れがある。こうした叙述に名称が与えられたのはつい最近のことで、日本の現代文学では山下澄人や保坂和志による作品の批評でよく用いられた。

上田 2010年頃から、文学の世界で流行しはじめたのが「移人称小説」です。すごく単純化して説明すると、「私」「僕」などの一人称の視点で描かれていた物語が、いつのまにか「あなた」「君」などの二人称の視点で、あるいは「彼」「彼女」といった三人称の視点で語られる小説です。たとえば「私」が知り得ない、自分の妻の視点で物事を描写したと思ったら、また「私」に戻ってくる。移人称の手法はいろいろあります。

暦本 『太陽』でも、物語が過去と未来を行き来したり、突然俯瞰的な視点で描かれたりしていましたね。すごく面白かったです。

上田 私はちょっとひねくれているので(笑)、『太陽』ではひとりの人物があらゆる人生を疑似体験できるしかけ、つまり移人称を個体の中で可能にする理屈を付けたんです。文学の世界で使われる移人称と、暦本先生らが取り組まれているテレプレゼンスの研究はよく似ていると思います。最先端の科学技術と、文学はリンクしているというのが私の持論です。

暦本 自己から他者へ人称を移す技術はVRやARの分野で、非常に重要視されています。

上田 文学的な手法の一つとして生まれた移人称的な視点が技術によって可能になり、いずれ一般にも普及するかもしれませんね。そうなると、たとえば今ここ日本で話している人が二秒後に、香港のとある会場の壇上にいる代理人に接続して、講演しはじめるといった光景を見ても、「ああ、これ、普通にあるよね」と誰も驚かなくなるんでしょう。

「レディー・ガガを乗りこなす」AI×ARの“幽体離脱”時代とは何か? 上田岳弘×暦本純一「AIとAR時代の文学」(後編)

この対談でも「移人称」を巡る文芸創作の技術的な議論が行われている。上田岳弘もまた人称により生じる認知の問題を実作で検討し続けた作家であるが、先に述べた作家と大きく違うのは「そうした文体がなぜありえるのか」という原理的問題にも、フィクションの想像力を使っている点だ。現在の科学技術を援用したスケールの大きな虚構を導入することで、巧みに文学表現に物語的な因果を組み込んでいる。

「存在」と「哀切」を巡って

芥川賞を受賞した『ニムロッド』は、ビットコインの開発者であるサトシ・ナカモトと同姓同名の男が、勤務する会社の社長からビットコインを「採掘」する業務を命じられることから物語がはじまる。そこに同じ会社の名古屋支社に勤める同僚のニムロッドから送られてくる「駄目な飛行機コレクション」についての文章、恋人の田久保紀子との逢瀬、といったエピソードが断片的に積み上げられていき、それらは認識が溶け合うような非人称的な感触を形成しながら、ニムロッドによるポストヒューマン的な世界観を持つ小説へと向かっていく。

リアリスティックな筆致に対してどこか甘美なものを思わせるこの作品は、存在について「2つのありかた」を提示している。
1つはビットコインの仕組みでもあるブロックチェーン的な存在。物理的には存在しないにも関わらず、全体で「ある」と認知されることによって存在が認められるありかたである。
もう1つはサリンジャーが書いた小説のようなありかただ。「サリンジャーはあるときから書いた小説を金庫にしまいこみ誰にも読ませなかった」という実話が作中で語られるのだが、このように「物理的には存在しているのに誰にも認知されていないもの」が、ビットコイン的存在の対極として挙げられている。
現代日本で生活することは、この2つの存在のあわいで生きるようなものに思える。
個人的なことをいえば、ぼくはWEBライターとして生計を立てているが、仕事において売買されるのは「文章」という物理的実体を持たないものである。そしてそれが読まれるために、ブログやTwitterなどでも文章を書く。ときに「意味」を書き、ときにじぶんが人間として生きているという気配をくだらないツイートとして書く。しかしぼくは物理的に読者の目の前に決してあられないし、日々の生活において家族以外ではスーパーのレジのおばちゃんと保育士さん以外との事務的なやりとり以外にほとんど接点を持たないでいる。
文章が「貨幣」として機能して「物書きとしてのぼく」の存在が認められるが、私生活において──ニムロッドのことばを借りれば──ぼくはそこにごろりとあるだけだ。

「予測可能な傾向や力が存在するということを信じさせようとする。ところが実のところはと言うと、すべて脈絡のない現象にすぎないの。あなたは数字や、他の学問分野を当てはめてみる。でも、最終的には制御しきれないシステムを扱っていることになる。すごい速度でヒステリーが高まっていく──日に日に、毎分ごとに。自由社会の人々は国家の病状を恐れる必要はないの。我々は自分の精神錯乱、我々独自の集団発作を自分で作り出すから。我々が最終的な権威をまったくもてない思考機械によって生み出される集団発作。たいていの場合、精神錯乱はほとんど目につかないの。それは単に我々の生き方そのもの

──ドン・デリーロ『コズモポリス』

貨幣というシステムのなかに生かされているという感覚。為替の暴落により1日にして転落していく富豪を主人公としたドン・デリーロ『コズモポリス』では、人間による制御が不可能なシステムが引き起こす世界の変容が描かれているが、それは「価値」という実体なきものの存在の不確かさゆえともいえるだろう。
デリーロはそうしたシステムのなかで渦巻く「勝者」と「敗者」そしてその二項対立では説明できない人々の〝声(ヴォイス)〟に耳をすませる作家だが、上田岳弘はそれとどこか似ていて、かつ決定的に違うものがあると感じた。システムの彼方を見つめる上田作品に立ち現れる「その後の風景」には、人間がいない。人間のかたちをした人間がいない。しかし、静かだが力強い声が聞こえてくる。

かれの作品がまとう甘美なロマンティックは、この孤独な情景の「存在」を承認するセンチメンタルにある。小説世界は読者に「読まれる」ことでその像を結ぶが、しかしそれ以前に──もしかしたら作者に書かれるより前に──その世界はただごろりとそこにある。まだ人類が到達できていない情景に上田作品の眼差しは向けられている。