霞む視界。闇雲な盲信。
黒い雪が降ってくる。テレビで見たんだ。
無情報。不協和音。押し寄せる黒い雪。押し寄せる黒い雪。
何も生まれない。黒い雪からは。何も得られない。

──Oneohtrix Point Never “Black Snow”

最初に本書の流れを示す。
流れ。一言で言えばそれはこうなる──独立、統制、逃走。
あるいはこうとも言える──暗闇から生まれること、光の中で育つこと、ふたたび暗闇へと帰っていくこと。

本書『ダークウェブ・アンダーグラウンド』は、そのタイトルから、「ダークウェブ」の(さらなる)「アンダーグラウンド」、「アンダーグラウンド」である「ダークウェブ」、または「アンダーグラウンド」にある「ダークウェブ」、あるいは「ダークウェブ」と「アンダーグラウンド」についての本である、と思われる向きが多いかもしれない。しかし、それを字義通りとらえると本書の内容を読み誤る。本書が記述し意図する内容はそれらのいずれでもない。本書の中心は「ダークウェブ」になければ「アンダーグラウンド」にあるわけでもない。
『ダークウェブ・アンダーグラウンド』。その中心は、たった一つの単語──「ダーク」という単語によって担われている。

「ダーク」であるもの、「ダーク」であること。暗い闇。未知のもの。暗号化され、秘匿された物事。
「ダーク」。舌の先が口蓋を一度叩き、引き伸ばされた濁音が喉の手前でぱちんと弾ける。「ダーク」。破裂する、ただ一つの響き。
『ダークウェブ・アンダーグラウンド』。本書は、その言葉──ただ一つのその言葉──「ダーク」に焦点を当てている。始まりから終わりまで、一貫して。

本書は、インターネット以前から以後、つまり現在までの、インターネット・カルチャーにおける精神史として読むことができる。それは「ダーク」の精神史、闇と光の対立の歴史でもある。闇とは暗号を指し、光とは復号を指す。闇=暗号の世界とは反動と自由主義、ニューエイジ的で、ある種オカルティックな宇宙主義(反人間中心主義)の世界であり、光=復号の世界とは良識と公正主義、近代的な理性とそれによる意志決定を前提とする、人間中心主義の世界である。

流れについて、全体像はこのとおり。

図では、縦軸に「光(復号の世界)」と「闇(暗号の世界)」を、横軸に、時間経過にしたがい「インターネット以前」「インターネット実装期」「インターネット以後」をとっている。こうしてできたマトリクス内にマップした各項目は、「自由」「統制」「反動」の三つに分類することができる。流れは次の[1][2][3]のように言い換えることもできる。

[1]インターネット以前の時代
・自由を求める「ダーク」なハッカー精神が醸成され、インターネットが夢見られた時代。

[2]インターネットが実装された時代

・インターネットが実装され、大衆化し、大企業によって統治され、ハッカー文化が薄れていった時代。

[3]インターネット以後の時代

・民主化し管理されたインターネットへの反動として、「ダーク」なものが回帰し過激化した時代。

閑話休題。上記[1][2][3]、それぞれの詳細については説明を割愛する。私には本書の著者以上の知識も持ち合わせていなければ能力もなく、また、既に本書に書かれているのだからその必要もない。
そのため以下では概要のみの記述にとどめる。概要をお読みいただき興味を持たれた向きには、ぜひとも本書を手にとって詳細をご確認いただきたい。
本題に戻る。概要は次のとおり。

[1]インターネット以前の時代では、インターネット以前からインターネット黎明期を舞台に、ヒッピー/カウンターカルチャーを源流とするハッカー精神=サイファーパンクを紹介し、ダークであること=通信を暗号化することが、いかに「自由」を求めるハッカーたちのアティチュードと結びついたものだったのかということを紹介している。

[2]インターネットが実装された時代では、グーグル及びそれに追随するIT企業やコンサルティング企業によって、いかにインターネットが民主化し、大衆化し、公平で公正なものとなっていったのか、そしてその過程で個人最適化が推し進められ、「閉じた」システムとなっていったのかを紹介している。

[3]インターネット以後の時代では、[2]インターネットが実装された時代への反動として、「自由」を求め「外部」に出ようとする動きがふたたび出現しており、「自由」=「暗号」=「ダーク」なものがいかにして現実に影響を与えつつあり、そしていかにして、闇が光を、虚構が現実を、フェイクがトゥルースを書き換えつつあるのかを事例を交えて紹介している。

まとめると、当初は反動的で自由主義的で宇宙主義的な闇の世界(暗号の世界)から始まったインターネットが、実装されインフラ化されることでユーザーが増え一般化し、良識的で公正主義的で人間主義的な光の世界(復号の世界)のものとなり、現在ではそれらの反動として、かつての時代の反動・自由・宇宙主義が、オルタナ右翼などの過激な形で──テクノ原理主義的ともテクノ・オカルト主義的とも言える仕方で──表出しているのだと、本書は解説する。本書は次のように書いている。

クリス・アンダーソンは断片化したインターネットを見て「ウェブの死」を宣言し、イーライ・パリサーはSNSに閉じこもる人々を見て「フィルターバブル」という言葉を作った。ツイッターやフェイスブックは運営企業のサーバーによって集中管理され、個人データは知らない間に吸い取られビッグデータとして企業の間で取り引きされている。もちろん、その間にも(スノーデンが暴露したように)NSAは海底ケーブルを傍受し、大手IT企業のサーバーにバックドアを仕掛け市民の通信を日々監視している。(P.58)
サイファーパンクたちは暗号空間としてのTorネットワークに、体制による統治から逃れた自由なフロンティアの可能性を見出していたのだった(少なくとも「アラブの春」の頃まではそうだった)。その意味では、先ほど述べた新反動主義における「出口」やピーター・ティールにおける「逃走」ともどこか通じあうものがある。いや、それどころかむしろサイファーパンクは彼らの始祖とすらいえるかもしれないのだ。(P.221)
サイファーパンクが夢見るユートピア、それは「国家」も「理性」も「善意」も「友愛」も必要としない、ただ一つ「数学」というもっとも美しくかつ純粋な法による支配なのであった。宇宙を貫く普遍的な諸法則──そう、ニック・ランドが資本主義の加速度的プロセスを逆らうことのできない「宇宙の法則」のようなものとみなしたように。サイファーパンクが奉じた公開鍵暗号方式もブロックチェーンも、人為的な「判断」も「合意」も入り込む余地がないように設計されている。言い換えれば、これらの自動化プログラムは、民主主義の過程そのものを排除する脱-政治化プログラムなのだ。人間は玉座から退き、代わりにクトゥルフ的な神々、すなわち「宇宙の法則」による支配が始まるだろう……。(P.221)

インターネットはそもそも「ダーク」なシステムなのであり、ワールド・ワイド・ウェブはそもそも「ダーク」なウェブだった。「ダーク」から始まったものがダークから離れ、そしてもう一度ダークに帰り、かつてはダークではなかったはずの非インターネット空間=現実空間にまで影響を及ぼしはじめている──本書はそのような筋書きで、歴史と現状を整理する。

歴史。そこには多くの記号が蠢いている。
グローバル・ヴィレッジ、ホール・アース・カタログ、ハッカー精神の誕生とサイファーパンクの勃興。そしてインターネット、ダークウェブ、GAFAの登場。それから個人最適化アルゴリズムの導入とフィルターバブルの発生、新反動主義/加速主義/ニック・ランドの暗黒啓蒙/オルタナ右翼の出現、インターネット・ミームの増殖、ドナルド・トランプの当選といった一連の現象──そして、それらの記号を横串に、通奏低音のように一貫して流れる「ダーク」の響き。
それら「ダーク」なものたちがいかに「アンダーグラウンド」で生まれ、そしてそこから這い出し、いかに「ダーク」でないものやことまでもを侵食しつつあるのか──それが、本書がとらえて象り描出する、今ここにある現実の一つの流れである。
無数のフェイクニュースと増殖し拡散し続けるインターネット・ミームにまみれた現実。ポスト・トゥルースと呼ばれる現在。『競売ナンバー49の叫び』においてトマス・ピンチョンが描いた、あらゆる場所に偏在する、地下世界からの暗号(=暗闇)にまみれた地上の世界。それこそが、2019年の世界を覆う現実なのであり、あらゆる場所が「ダークウェブ・アンダーグラウンド」になりつつある、この世界の一つの現実なのである。本書はそう主張する。

あるいはそれも、ある種のミームの一つなのかもしれないが。

ところで──むろん、本書がたいへんな労作であり、稀有な情報収集能力と情報整理能力、そしてそうした仕事を完遂するための「情念」に貫かれた良書であるということは前提としたうえで──、本書を読んでいると、はっきり言って絶望的な気分になる。うんざりして、何もかも投げ出したくなる。人類の未来がどこにあるのか、わからなくなるからだ。
本書で紹介されているのは絶望だ。人類の直面している、大いなる絶望だ。そこで描かれているのは近代の敗北、理性の敗北、人類の敗北、すべてが暗闇に覆われること、それを受け入れること──つまり、人類が人類であることをやめ、人類の滅亡を受け入れることだ。
今ここにあるこの現実の延長線上にある絶望を、本書は否応なく私たちに叩きつける。目を覆いたくなるできごとの羅列が、「もうあきらめろ」と私たちにささやきかけてくる。「あきらめて、闇の中で滅びよ」と。

しかしながら、救いがまったくないわけでもない。
本書は、絶望的な現在から未来に対する祈りに満ちた、かすかな希望を絶やさないための書物とも読める。過去の流れを把握し、現在の状況を正しく理解し、未来の希望を語ること──本書の内容について、そう読むことも不可能ではない。
なぜならば──ぜひ本書をお手にとって読んでいただきたい。本書は次のように締めくくられている。

陰謀論の信奉者は、その「物語」を「真実」とみなしているという点で、彼らは文字通り「真実」を信じている。つまり、ポスト・トゥルースという言葉に反して、そこには「真実」しかない。だからむしろ問題は、人々が「フィクション」をもはや信じることができないでいることなのかもしれない。現在のインターネットは、個々が信じる「真実」で渦巻いている。そのような状況下で、「物語」を多元的な「フィクション」=可能世界に返してやることは、果たしてできるだろうか、言い換えれば、私たちは「フィクション」をもう一度本気で信じることができるだろうか。(P.256)

暗黒で、地下で、深層で、暗闇の中手探りで、暗号化され、秘匿され、目には見えない無数の物語の切れ端をつかもうとすること。異なるすべての物語、そのすべてを信じつつ、矛盾も含めて受け入れること。
真実はなく、真実である可能性に賭け、そして失敗し、また失敗し、それからまた失敗し続けること。失敗の約束された試みを、ただ信じること。可能世界を生き、自らの意志で可能性を選び取ること──私たちが人間のままでいられるかどうかは、その試みを引き受けられるかどうかにかかっている。

果たしてこれは私の妄想だろうか。
それはわからない。
しかし、私は本書を読んでそう考えた。
私はたしかにそう思った。
それは事実である。
そして、おそらくは本書の著者も同様なのだろう、と私は思うのだ。

実際、著者の木澤佐登志氏は、『ファイト・クラブ』、『lain』、『闘争領域の拡大』、『輪るピングドラム』、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、ヴェイパーウェイヴ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、トマス・ピンチョンといったカルチャー群=フィクション群を引くことで本書を書き上げており、「物語」を多元的な「フィクション」=可能世界に返してやることで、可能世界の視点から、今・ここにある現実を認識し把握し、そして、「それでもまだ、可能性は残されているのだ」とささやき、今を肯定しようとしている。

要するにこの著者は、フィクションの持つ力を、本気で信じているのだ。

闇を肯定するわけでもなく光を肯定するわけでもない仕方で、祈ることのできる唯一の希望は──まだ残っているとすればだが──おそらくはそこにある。

希望はないが、絶望だけとも限らない。

少なくとも、私は本書の言葉をそう受け取った。
むろん、本当はそうではないのかもしれないが――。

最後に、一つのリリックを紹介したい。
加速主義/新反動主義/オルタナ右翼の主要人物であり、『暗黒啓蒙』の著者である哲学者、ニック・ランドから影響を受けて書かれたという、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(ダニエル・ロパティン)の楽曲「Black Snow」のリリックを。
それは、次のようなものだ。

出て行く前にドアを開けなくては。ブラックホールの底には何がある?
押し寄せるブラックホール。未回答の問いが山のように積み重なるだけ。
押し寄せるブラックホール。押し寄せる黒い雪。押し寄せる黒い雪。
何も生まれない。黒い雪からは。何も得られない。

これは、現代の暗黒について語られた、かつ多義的な解釈が可能な──可能世界に開かれた、「フィクション」としてのリリックだ。
そして私にはこのリリックは、ニック・ランドの「ダーク」な思想に反して──あるいは、その射程から脱して──「ダーク」化する世界への警鐘、あるいは、性急に「ダーク」になろうとする人々や「ダーク」であることを支持する思想に対する皮肉に読める。
私の目にはそう映る。私にはそう見える。私には。

黒い雪。押し寄せるブラックホール。黒い雪からは何も生まれない。
黒い雪、ブラックホール、極限の暗黒──出ていく前には、ドアを開けなくては。

雪のように押し寄せる無数の暗黒は、あなたの目にはどう映っているのだろうか。