高橋弘希『送り火』が第159回芥川龍之介賞を受賞した。
日本で最も有名な文学賞といっても過言ではないこの賞は、出版不況といわれる現代においても注目度が高いが、文芸ファンを除いて「芥川賞」がどういう性質をもった賞なのかという認知度はそこまで高くないように感じられる。
芥川賞は文學界(文藝春秋)・群像(講談社)・新潮(新潮社)・すばる(集英社)・文藝(河出書房新社)のいわゆる「5大文芸誌」や、その他文芸雑誌に掲載された「新人作家による短編および中編の純文学作品」が対象とされ、ピース又吉の受賞など一部の例を除いて、世間的に「決して知名度が高いとはいえない作家」の作品が「はじめて」広く読まれる機会を得るという意味において極めて重要だといえる。候補作に上がるような、いわゆる「純文学」作品の発行部数が1万部を超えることはほとんどないという実情を鑑みると、「芥川賞受賞」の帯とともに5万部以上刷られるという事実こそ、この賞の影響力をもっともよく物語っているだろう。
※http://prizesworld.com/naoki/wins/sales.htm で公開されているデータを参考として上記グラフを作成した。便宜上、発行部数が不明だった作品は「0」として処理した。なお、そうしたものを除外した際の平均発行部数は約23.3万部だった。なお、受賞作のうち約8割の発行部数は5万部〜20万部である。
過去には石原慎太郎『太陽の季節』、村上龍『限りなく透明に近いブルー』、綿矢りさ『蹴りたい背中』など社会現象ともいえるほどに流通した作品もあり、これらを入り口として現代の文学作品の魅力を知り、つづく100冊、1000冊の読書へと駆り立てられる読者も少なくないのではないかとおもう。じっさいにぼくもそうした影響を受けていることは無視できず、「芥川賞」というのは読書におていひとつの目安となっていた。作家個人がそれぞれに抱えた問題意識が現代においてどのようなかたちで表現され、そして選考委員をはじめとする現代のさまざまな読者にどのように受け入れられるのか──半年に1回、つまり年に2回という回数の多い賞であるがゆえにその新陳代謝も激しく、受賞しても多くのひとびとの記憶にながく残る作品はけっして多くはないけれども、今回の受賞作『送り火』の作者である高橋弘希をはじめ多くの作家が「賞のために小説を書くなんてことはない」というように、文学作品のひとつひとつは報道や世間のリアクションとはまったく異なる次元において、絶対的ともいえる強さで存在している。
夏目漱石『夢十夜』の第六夜、仁王像を彫る運慶は「仁王像を彫るのではなく、木の中に埋まっている仁王像を掘り出すのだ」といった。これと同様に、作者が小説を可能なすべての文字列のなかから「発見した」のであれば、小説の発見やそれじたいの内容のすべての外部によりその作品の存在価値が語られてしまうことはひょっとすると作品にとって不憫なことなのかもしれない。
同時受賞が出てもおかしくない高水準の候補作
今回の候補作はどれも非常にレベルの高い作品が集まったと素直に感じた。ぼくの予想では、町屋良平『しき』・古谷田奈月『風下の朱』・高橋弘希『送り火』の3作から2作の受賞作が出るだろうというものだったが、『送り火』の単独受賞という結果に驚いた。
町屋良平『しき』は、候補作のなかでもっとも技術的野心が高い作品におもわれた。動画投稿サイトに触発されて踊りをはじめる「かれ」を中心に、思考・感情・人間模様のあいまいさと身体を使った表現との差異を、届きそうで届かないもどかしいことばとしてテクスト上に浮上させることに成功している。
古谷田奈月『風下の朱』は候補作のうちもっとも社会性の高い小説だった。大学の女子野球部を題材としたこの小説の核は、スポーツとプレイヤーの性についての差異と強い自覚だ。日本では女子プロ野球があるとはいえ、野球は「男性性」が強いスポーツであり、その対極としてソフトボールが「女性性」の強いスポーツとして描かれている。かつてヴァージニア・ウルフは性別は超越されるべきものだと主張したが、文学に限らず昨今のジェンダー論争をふりかえってみると「無性別的なふるまい」ではなく、「わたしが女性であること」の強い自覚をもっジェンダーフリーへと向かおうという動きが感じられる。そうした社会を背景にしたとき、『風下の朱』はいま多くのひとに読まれて欲しい作品だ。
現実と虚構の狭間の「リアリティ」──受賞作『送り火』
一方で、高橋弘希『送り火』は技術的野心や社会性というものからは距離をおいた作品に感じられた。無論、ぼくのような読者がどう読んだかと、小説の切実がどこにあるのかは必ずしも一致しないし、技術的野心とか社会性とかそういうものも作品の一部を切りとった所管の域をでることはない。高橋弘希の小説はデビュー以来多くの読者から「描写の精密さ」を取り上げられてきて、受賞会見でもそれについての質問があがった。
小説の思想を強化し、物語で起こることを暗喩的に処理するような描写というのは、かなり古典的な印象を受け、そうした小説がずっと苦手としてきたぼくにとっても、『送り火』は読みにくいことはないけれど、読みやすいものではなかった。しかし、高橋弘希は芥川賞候補にもなった太平洋戦争時に南方戦線で生きる一兵卒を描いたデビュー作『指の骨』、ゼロ年代日本を舞台とし事実上の「自殺サークル」の群像を描いた講談社が主催する「芥川賞」に相当する野間文芸新人賞を受賞した飛躍作『日曜日の人々(サンデーピープル)』など、折に触れて「死の風景」を描き続けている。
私はその頃、どうも空洞ができてしまったようだった。哀しみはなかった。人間の死は日常だった。イスラバの戦闘で、田辺分隊長が死に、藤木が死に、古谷が死んだ。そして第三野戦病院でも、患者は毎日死んでいた。あのジャズの歌い手も、将棋のつわものも、津軽こけし職人も、程なくして死んだ。哀しみはなかった。ただ、心の奥底で、細い線が揺れていた。細い線が、ときに鳴るので、そこに線があると、分かる。線の先に、何か結わえてある。抽象的なものではなく、現実にそれを見たことがあると感じた。寝台から椰子の天井を眺め、線の先に何が結わえてあるのか、長いこと考えていた。答えは見つからなかった。
高橋弘希『指の骨』
『指の骨』のこの文章では、死や戦争、そして語り手自身の生が、否定も肯定もされずにそこにあるものとしてフラットに描かれている。生き死にやそれを脅かす暴力が小説として不可避的に描出されるとき、「人間である」という認知を持ってしまうとそこに感情や意味を求め、なにかを伝えたり読み取ったりしようとしてしまう。この語り手もまた、目にうつった「線」に対してそれを求めた。しかし、それを見出せないという事実に直面し、作品に漂う離人感をいっそうに強めている。「私が生きている」という事実が他人事として、個人の切実を超えたどうしようもない現実として示されている。
青森の中学生のいじめや暴力を描いた『送り火』でも、当事者でありながら、属している世界の残酷さを訴えることなくただの事実として見つめ、現実と虚構の狭間にある「リアリティ」を浮き彫りにした。
やがて成虫の内側から、エメラルド色の柔らかな薄翅が捲れ上がる。その二枚の薄翅を広げようというところで、成虫は動きを止めた。ある瞬間に、蝉はその薄翅を、ぱっと花咲くように広げるだろう。歩はその一瞬を見逃さない為に、まばたきすら惜しんだ。しかしどうしたわけか、成虫は殻から半身を覘かせた状態で、一向に動かない。拍動していた胴体も、事切れるように最後の一打ちをすると、完全に停止した。二人はその後も長い間、蝉が翅を開く刹那を待っていた。二つの小豆色の複眼が、もう何も見ていないことを、歩は理解した。
高橋弘希『送り火』
人間の肉体から離れるような感覚は、認知を身体の外側へと増幅させる。その増幅はいつも小説にとってよいということはなく、小説の登場人物はなぜにこんなに敏感なのか、なぜこんなにものを考えるのか、という違和感として現れることもある。しかし、知覚する対象が主人公の身体を離れた、ごくちいさいもの、ちいさいながらに壮絶なものへと移されたとき、ぼくらにとってそれはただごとではない「なにか」になる。その「なにか」は、ことばにより抉り出されることでしか生まれえないものでさえありえる。高橋弘希のつよさはそれだ。
「自由な読書」のために「補助線」を
文芸ファンのひとりとして、ぼくは芥川賞の「受賞予想」が好きだ。
芥川賞・直木賞は選考会の直後に選考委員(各賞一名)による講評が行われ、翌月発売の文藝春秋に全選考委員の選評が公開される。この審査過程の透明性と、他の文学賞よりも多い選考委員の数がこの賞の大きな特徴だと言える。また、書評家の豊崎由美と大森望による「文学賞メッタ斬り!」、ニコニコ生放送によるライブ中継、下北沢の本屋「B&B」での受賞会見パブリックビューイングなど、「半年に一度のお祭り」として楽しもうとするイベントもあり、プロアマ問わずいろんなひとから提示される「さまざまな読み方」に触れる機会が豊富にある。
選評や世の中のリアクションを参照しながら読書をする、という機会は実のところ決して多くはないだけに、「受賞予想」として自身の感性を客観視しながら小説を読むというのはほぼ毎回新鮮な読書感を与えてくれる。
「ちょっと小説でも読んでみようか」とおもったら、芥川賞をはじめとする文学賞をひとつの目安にしてみるのもアリだとぼくはおもう。小説という表現はいまもむかしも自由かつ多様で、その器の広さゆえに読者にはさまざまな「読む自由」が保証されている。
しかし、実のところこの「自由」というのはむしろ不安や敷居の高さにもつながっている。「なにをどうやってもいい」というのは逆をいえば「なにをどうするか」の軸をじぶんで作らなければならないということでもある。ある程度の軸を持ち、そこを基準にしてどう位置づけされるかを俯瞰的に把握してこそ「自由」は実感できる。そうでなく、目隠ししてやみくもに振る舞う行為は、自由というよりも孤独にちかいかもしれない。
文学賞の予想や選評は「自由な読書」をはじめるための良い補助線となるだろう。
もちろん、その補助線はなにも文学賞である必要性などない。
これから本でも読んでみようか……というかたは、まずそんな「補助線」をじぶんのなかでひとつ持ってみてはどうだろうか?