「起業するなら、早ければ早いほどいい。」

スタートアップ界隈では何度も聞いた表現だ。若ければ失敗をしても許されるし、早くに失敗を経験したほうが強くなれる。若い頃に起業を推奨されるのは、そんな理由からだろう。

まるで経済の閉塞感を打破する英雄を求めるかのように、若手起業家に対する社会からの期待が、バブルのように膨らんでいる。こうした背景から、若者への起業支援が盛んに行われているのが日本だ。

『Forbes』 が定期的に発表する、30歳以下の起業家を特集した記事のように、成功体験だけがメディアを通じて知らされる。しかし、起業家が直面する、メンタルヘルス事情に関しては、ほとんど報道されていない。

『Tech in Asia』の記事によると、起業家が鬱になる割合は、全体の30%という。アジア圏における鬱病の平均発症率が7.6%であることから、約4倍の高さにのぼる。なかでもアジア人は、失敗は許されないというネガティブな思考を持つことから、世界的にみても起業家が鬱病を抱える問題が深刻であるという。

5分で瞑想コンテンツをオーディオ形式で楽しめる、ミレニアルズ向けサービス「Simple Habit(シンプルハビット)」を開発したYunha Kim氏は、起業家として成功を収めながらも、メンタルヘルスの課題にも直面した経験を持つ。今回は彼女の職歴を取り上げながら、私達が起業家支援を軽々しく叫ぶ前に考えるべきことを論じていきたい。

スタートアップ売却を経験した華々しい経歴

Yunha氏は学生時代、ニューヨークの戦略コンサルティングファーム「マッキンゼー」や「国連」でのインターンを経験した華々しい職歴を持つ。卒業後には投資銀行で約1年ほど働いたが、多忙な日々のなかで、どんどんモチベーションを削がれていったという。

そこで同じ気持ちを抱いていた職場の同僚と出会った。「Snapchat」のようなティーン向けメッセージアプリが台頭していたことから、スマートフォンのロック画面上で絵文字や可愛い手書きメッセージを送信しあえるサービスを考案し、同僚にピッチをしたのだ。

意気投合した二人は、シリコンバレーへと移住し、2013年に起業。アンドロイドアプリ「Locket」を開発した。

アプリを開かずとも双方向でやり取りできる手軽なメッセージ機能が評判を呼び、320万ドル(約3.5億円)の資金調達に成功。創業から2年後には、大手Eコマース企業「Wish」に買収され、26歳の若さにしてシリコンバレーで大きな成功を掴んだ。

買収の裏側にあった「燃え尽き症候群」

誰もが羨む成功話の裏側には、起業家としての苦悩が伺い知れる。筆者がYunha氏に話を聞いたところ、「Locket」が買収された頃は、大きくメンタルのバランスを崩していた時期であったという。

チームの規模が大きくなっていくなかで、経営戦略だけでなくエンジニアへの指示出しなど、課題は山積。当然、投資家からのプレッシャーも重くのしかかるため、成長戦略を描くのか、株主を満足させるためにイグジット戦略を立てるのか、岐路に立たされた。こうした状況を総合的に判断して彼女は売却の道を選んだ。

成功話の裏側で、創業者が精神的に圧迫されていた状況は、ほとんどメディアでは語られない。事実、企業を売却した経験が、職歴を語る上で大きなアドバンテージになるため、起業家も自らが精神的に弱っていたことを語りたがらない。

Yunha氏はこの体験を、次の起業へと活かした。スタートアップを売却した起業家は、数億円を超える資産を手にすることが多い。そのため、2-3年のブランク期間を優雅に過ごす。だが彼女は「燃え尽き症候群」の経験をバネに、同じ境遇の人をサポートする瞑想サービス「Simple Habit」を、事業の売却後すぐに立ち上げた。

「Simple Habit」は全米中の瞑想専門家を集めてネットワーク化。各瞑想家が音声でコンテンツを吹き込み、配信できるプラットフォームだ。朝の通勤電車の中であったり、緊張する上司へのプレゼン前など、細かいシチュエーションに応じてコンテンツが提案されるため、非常に使い勝手が良い。著名アクセレーター「Yコンビネータ」のプログラムを卒業し、今では急成長を遂げているアプリとなった。

理想論だけで進められる起業家支援プログラム

Yunha氏が「燃え尽き症候群」からすぐに立ち直り、「Simple Habit」のような急成長サービスを再び開発した成功話は、誰もが望むストーリーだ。だが、彼女が持つ成功話は、世界的にも希少であるという点を再認識すべきであろう。

メンタルや身体の健康が十分に備わっていない限り、起業家になるな」といった意見はよく耳にする。そして、若手起業家育成を声高に叫ぶ、日本の大手企業や行政などは、こうした健康的な状態を起業家がいつまでも保てることを前提に話を進めているように感じる。

企業や行政が用意した、著名アドバイザー陣のサポートを受けられるプログラムに採択された起業家にとって、健康管理は当たり前の仕事であろう。しかし、それはあくまでも個人任せの域に留まっている。

実際、企業規模が大きくなり、ステークホルダー(利害関係者)が多く絡むようになると、創業者は逃げ道を失い、日々プレッシャーとの戦いになる。『BBC』の記事は、先日自殺してしまったファッションブランド「Kate Spade(ケイトスペード)」の創業者も、自分の好きなデザインの追求と、経営的観点からクリエイティブな視点を損なっても売上を伸ばさなくてはいけないジレンマから、精神的な病に陥っていたと報じている。

何十年と経験のある創業者であっても、自殺に追い込まれるのが起業家の世界だ。こうした最悪のシナリオに目を向けず、「いずれは急成長するであろう」という理想論に作られた支援プログラムは、未だ不十分なものであると言わざるをえない。

私達が考えるべきは、経験の浅い起業家達を、極度のストレスや、失敗を乗り越えられずに鬱病を患うリスクから救うセーフティネットの確立ではないだろうか?

若手起業家育成を急ぐからこそ求められる「心のセーフティネット」

「Inc」の記事によると、シリコンバレーでスタートアップを売却できた起業家の平均年齢は47歳であるという。また、筆者がスタンフォード大学の教授に取材した際に聞いた、シリコンバレーの平均起業年齢は約40歳前後。十分な経験を積んだ人が多いため、ネットワークも広く、職歴も長いため、ある程度のメンタルの強さを持っている。

米国と比較して起業家の数が少ない日本は、急いでその数を増やそうと躍起になっている。2050年までに若者が少なく、高齢者の多い「棺桶型」の人口構造を迎える日本は、積極的に新しい事業創出できる人材を発掘する需要が高まっている。

そこで白羽の矢が立っているのが「学生起業家」に代表される若者たちだ。ここで大きな問題となるのは、Yunha氏が最初の起業で経験した「燃え尽き症候群」のようなメンタルヘルスの課題だ。

若さを武器に、何でも気合いで乗り越えられるような人材だけが起業家を目指すわけではない。だからこそ、若手起業のメンタルヘルスの問題に対して早急に対応し、投資支援などだけでなく、気軽に起業経験者や、同世代の起業家に悩みを打ち明けられたり、ビジネス相談を共有できるコミュニティ創出にも目を向けなければならないはずだ。

個別の事例でみれば、こうしたメンタルのバランスを取るためのセーフティネットとなる起業家コミュニティが興りつつあるが、大きなトレンドにはなっていない。

私たちは起業を後押しする支援だけでなく、辛い起業の道をいかに心のバランスを取りながら辿っていけるのかにも目を向けるべきであろう。

img : jnyemb, Jörg Schubert, Jörg Schubert, Hamza Butt, Sodanie Chea